俳人・黒田杏子②

俳句αあるふぁ編集部

修練の10年

 大きな注目を集めた第1句集『木の椅子』(1981年)、そのわずか2年後の第2句集『水の扉』(1983年)を経て一躍人気俳人となった黒田氏は、『水の扉』刊行後、「この次の句集の制作期間には最低十年をかけよう」(『一木一草』1995年)という修練を決意しました。黒田氏は自分の人生に長期的な目標を設定して行動する人でした。その心の計画を果して刊行されたのが第3句集『一木一草』(1995年)でした。1983年からのまさに丸10年の500句を収めた句集でした。
 
  能面のくだけて月の港かな
  一の橋二の橋ほたるふぶきけり
  実むらさき銀水引と荒れまさり
 
 「くだける」「ふぶく」「荒れまさる」という強い語調の動詞で情景を捉えた派手な句です。能面がくだけ、ほたるがふぶき、秋の植物は荒れまさり……比喩を介して情景が幻想的に再構成されています。国語教科書にも掲載された初期の代表句〈白葱のひかりの棒をいま刻む〉(『木の椅子』)も白葱を「ひかりの棒」と言い換えた句でした。黒田氏の句には目を引くような比喩で読者の心をとらえようとするものがたくさんあります。
 
 一方で、師・山口青邨、ひいては「ホトトギス」の系譜に連なるような滋味のある句も、黒田氏にはたくさんあります。
 
  残菊のあざやかなるを剪り束ね
  大雨のあと秋草を剪りに出て
  雪囲して桐の実の鳴りにけり
  帯高く七種籠を提げてきし
 
 刺激的な比喩が用いられているわけでも、ハッとするような情景が詠まれているわけでもない、静かな句です。同格の「の」を用いたことで強調される残菊のあざやかさ、あまりに単純な詠みぶりであるために却って驚くほどに感じられてくる雨と草のゆたかな匂い、「雪囲」と「桐の実」という意外な取り合わせが醸し出す静謐で繊細な雰囲気、「帯高く」という圧倒的なディティールが暗示する不思議な喜ばしさ。
 
  たそがれてあふれてしだれざくらかな
  花に問へ奥千本の花に問へ
 
 1句目、「しだれざくら」はしだれるという花の咲きようがまさにその名前に含まれている桜です。黒田氏はさらに「たそがれる」「あふれる」という二つの動詞を重ねることでこの桜の強烈な印象を表現しました。「たそがれる」「あふれる」「しだれる」という異なる三つの動詞の連続が、この桜の多面的で言い尽くしがたい美しさを表現しています。2句目の「奥千本」は古来からの桜の名所・吉野山のなかでもっとも奥にある一帯。桜とは、自然とは、美とは……。素晴らしい桜を前にして、ひとり静かに花に問いかけます。芭蕉の「松のことは松に習へ」という言葉も連想されます。
 
 黒田氏にとって桜は大切な季語でした。大学卒業とともに一度は遠ざかった俳句を30歳で再開したとき、氏は俳句について、「私自身が生涯の「行」と決めてとり組むのだ。忙しいとか、才能がないとか、くたびれたとか、ともかく言い訳、泣きごと、愚痴はいっさい言えないのだ」(「花を巡る 人に逢う」「文藝春秋」臨時増刊号、2003年3月)と考えたそうです。では、「行」として俳句に取り組むためにどのようにすればいいか、と考えたとき、氏が発心したのは、日本中の見るべき桜を、誰にも言わずに一人で見て回ることでした。
 
 この「日本列島桜花巡礼」は、28年目の57歳の春までつづきました。途中までは週休二日制ではなかった時代の話です。社会人として働きながら、写真も撮る暇も、正確な記録を残す暇もないがむしゃらな旅をつづけた氏は、各地で縁を作り、そして桜を詠みつづけたのでした。
 
  鵜篝の波や五十の夢のあと
 
 そうして黒田氏は50代を迎えました。定年も決して遠い未来のことではなくなり、徐々に人生の後半という意識が芽生える頃です。田辺聖子氏の『花衣ぬぐやまつわる…』の刊行記念イベントのためにそのゲラ刷りを読むという体験から生まれた〈大年のゲラ刷にして久女伝〉という句もあるように、有名俳人としての俳句界の内外の仕事も増加し、身辺はどんどん慌ただしくなっていきます。このとき氏が見た「五十の夢」はどのようなものだったのでしょうか。「鵜飼」は、暗夜を火が照らす夢幻のイメージがあることや動物の殺生に関わる行事であることから、古くから「夢」を連想させるものでした。
 
  
昭和六十三年十二月十五日 山口青邨先生死去
  寒牡丹大往生のあしたかな
  父を焼き師を焼き蓬餅あをし
 
 この『一木一草』の時代には俳人としての人生の転機が訪れていました。師・山口青邨が1988年に長逝したのです。96歳の大往生でした。その主宰誌「夏草」には多くの俳人が集っていましたが、青邨の信頼が篤かった門人・古舘曹人は、生前の師の思いを汲み、終刊を決定します。そして「夏草」はいくつかの後継誌に分かれることになりました。「夏草」は昭和5年創刊というその長い歴史とは裏腹に、結社賞である「夏草賞」を数名にしか与えていなかったため、青邨が物故した時点で在籍していた受賞者らが後継誌を創刊することになったのです。
 
 このとき、有馬朗人氏の「天為」、斎藤夏風氏の「屋根」、深見けん二氏の「花鳥来」などとともに誕生したのが、1986年に「夏草賞」を受賞していた黒田氏の主宰する「藍生」でした。次回は指導者としての黒田氏に迫ってみます。(編集部)