俳人・黒田杏子③

俳句αあるふぁ編集部

季語の現場に立つ

 山口青邨の死去を受けて黒田氏が主宰誌「藍生」を創刊したのは1990年10月のことでした。「藍生」は「夏草」時代の会員も部分的には引き継いでいましたが、むしろ会員の多くは、黒田杏子という俳人に魅了されて俳句の世界に飛び込んできた人たちでした。したがって比較的に句歴の浅い会員が多かったため、黒田氏は、自身も含む「藍生」の俳人たちの実力の底上げを考えました。それまでいくつかのメディアの投句欄の選者は務めていた黒田氏でしたが、結社の主宰として句会と雑誌に関する一切を自由に采配できる立場となり、そのスケールはますます大きくなっていきました。
 
 「藍生」という結社で何ができるかを自問自答した氏が出した答えは、大規模な吟行の計画でした。本連載の
第2回で述べたように当時の黒田氏は一人で全国の桜を見てまわる「日本列島桜花巡礼」を行っており、これがヒントになりました。「江戸広重名所図会」を辿る江戸百景吟行、西国三十三観音の西国吟行、四国八十八ヶ所遍路吟行、坂東三十三観音の坂東吟行……。「藍生」の会員や「あんず句会」
(「藍生」創刊以前の1985年から指導していた、瀬戸内寂聴氏が開いた寂庵の「嵯峨野僧伽」での月例句会)の会員を巻き込み、各地に散らばる会員の献身的なサポートも受けながら、数年~十数年にわたるロングランの計画で、次々に全国の土地を吟行してまわったのです。勤め先を定年退職した60歳からは、全ての吟行を包含してかつさらに日本全国をめぐる「俳句列島日本すみずみ吟遊」を標榜しました。
 
  飛ぶやうに秋の遍路のきたりけり
(『花下草上』2005年)
  やうやくにをんな遍路をこころざす 
 
 颯爽と現われた健脚のお遍路さんを活写した1句目、遍路というゆかしい修行を志すようになった中年の自分を詠んだ2句目。四国遍路吟行の際の句です。四国遍路吟行は平成10年春から年に4回行われ、平成13年に満了するまで、全国から会員が集まり、その様子は「藍生」で報告されました。「日本列島各地に遺された壮大な歴史の道、禱りの道を、連衆と共に、急がず、弛まず、愉しみつつじっくりと巡り、辿りながら、それぞれに自己発見を重ねてゆく」
(『花下草上』あとがき)という学びを得ながら、黒田氏は「藍生」の会員たちとともに俳人としての年輪を重ねていきました。
 
 この頃から黒田氏は「季語の現場に立つ」ということを重視し、発信してゆくようになります。土地の歴史のただ中に今も息づく季語を実地でたしかめ、向きあうという体験に特別な意味を見出したのが黒田杏子という俳人でした。
 
 黒田杏子といえばもんぺ姿を思い出す人も多いでしょう。氏はどこへゆくにももんぺでした。ただのモンペではありません。合理化と伝統の保存の合間に立って着物を生活の中で生かそうとしたファッションデザイナー・大塚末子がデザインした「もんぺスーツ」です。黒田氏がこのもんぺスーツと出合ったのは博報堂在職中の43歳のこと。金沢市で開催された日本文化デザイン会議のワークショップ「三宅一生と大塚末子」を取材で訪れた氏は、インドシルクのもんぺスーツを着こなす老齢の大塚に突然「あなた(三宅)一生さんもお似合いですけど、大塚末子も着てご覧になりませんか」と声を掛けられ、後日もんぺスーツを作ってもらったのです
(『四国遍路吟行』2003年)
 
 職場にも着ていったというこのもんぺスーツは、日本をくまなく歩き回る俳人にはうってつけでした。「パッパッと畳んで風呂敷で平たく包む。それを四半世紀愛用の一澤帆布の旅鞄に収めれば、どこにでも行ける」
(『布の歳時記』2003年)
 
 黒田氏の仕事としてもう一つ見逃せないのが40代半ばの1985年に就任した「吉徳ひな祭俳句賞」の選者です。第1回から選者を務め、亡くなる本年(2023年)の第39回まで、長きにわたって尽力しました。吉徳は歴史ある人形屋です。賞を創設した当時の吉徳社長・十一世山田徳兵衛の父・十世徳兵衛は高浜虚子に学んだ俳人であり、その縁で吉徳は毎年、雛の句を募集しています。
 
 亡くなる直前の第39回の選者吟に〈雛を詠む投句はがきの朿重たし〉とあるように、毎年多くの投句が寄せられます。入選句は浅草橋本店に展示されます。黒田氏は年に一度、その本店に行って見事な雛壇を見るのがならいでした。
 
  曾祖母の雛祖母の雛みどりごに
(『日光月光』2010年)
 
 吉徳もまた黒田氏にとっては大事な「季語の現場」だったことでしょう。黒田氏は俳句を仕事とし、仕事によって俳人としての学びを深めるという幸運な人生を送った俳人でした。
 
 一方で、疎開を機に少女時代を過ごした栃木県の記憶も、氏の季語理解を助けていたと思われます。『季語の記憶』『布の歳時記』(ともに2003年)に収録されたエッセイを読むと、少女時代の豊穣な自然体験の記憶の一端に触れることができます。たとえば『布の歳時記』の「蚕」の章を読むと、「ざわざわ、ざわざわと波立つようなその響き。桑の葉っぱをお蚕さんが食べているその音だと教えられても、それがどういうことなのか、分からない」という、淡くも美しい一節に出合います。(編集部)