俳人・黒田杏子④(了)

俳句αあるふぁ編集部

人と繫がる

 黒田杏子氏は山口青邨への師愛を生涯にわたって語り続けました。氏はかつて青邨に初めて会った日のことを、「私はこの日、山口青邨に帰依した」という表現で言葉にしています(『布の歳時記』2003年)。自身と師の関係を仏教のアナロジーで捉えようとするところに、氏の考え方が色濃く表れているようです。
 
 それと同時に黒田氏は、多くの人と繋がり、それによって場をつくることに長けた俳人でした。氏はしばしば自身を「女書生」と称しましたが、その人生はまさに、仰ぐべき人、語り合う友を探し求めて歩き回る書生そのものであったといえます。
 
 たとえば黒田氏は主宰誌「藍生」の創刊以前の1985年から、本業である広告代理店の社員として知り合った作家・瀬戸内寂聴氏の応援を受け、寂聴氏の尼寺・寂庵で月例の「あんず句会」を開催・指導、俳人としての自身の足場としてきました。
 
  寂庵に雛の間あり泊りけり 
『一木一草』
 
 黒田氏にはこんな句もあります。寂庵に雛人形が飾られているという事実は、その経歴と作風から出家後も色濃く残った寂聴氏の「女」のイメージによって、読者にさまざまな印象を抱かせます。寂聴氏は永六輔氏と並ぶ黒田氏の応援者であり、寂聴氏は生涯にわたって黒田氏を大切にし、また黒田氏も終生、寂聴氏を尊敬しつづけました。
 
 1980年代の黒田氏にとってもう一つの足場であったのが「木の椅子句会」でした。自身の第1句集にちなんだ名前のこの句会は、1982年、『木の椅子』が俳人協会新人賞と現代女流俳句賞を受賞して一気に俳壇内外に名前を知られるようになったその年にスタートした勉強会のような性格の集まりで、時期によって参加者は異なっていたようですが、戦後生まれの俳人たち、つまり当時の若手俳人たちが結社を超えて参加していました。また、のちに「藍生」に加入する若い女性たちも、この句会に集まっていたようです。
 
 現在俳壇で活躍する60代前後の俳人たちが若手時代に集った「木の椅子句会」がどのようなものであったかは、当事者たちの回想や略歴に断片的に現れる記述から想像するほかなく、ぜひ今後、まとまった記録が読みたいものですが、ここでは参加者の一人であった大屋達治氏が当時執筆した文章を引用し、会の雰囲気を知るよすがとしたいと思います。平成初頭、波多野爽波が逝去した際の追悼文の一部です。
 
 あるとき、黒田杏子氏をリーダーとする木の椅子句会のメンバーで、『骰子』の合評をやって、テープを爽波氏に贈りましょう、と話していると、まだ合評もせぬうちに、それを「青」にのせたいから、と言って来られ、実現した。主宰者の句集が出たら、みんなでヨイショするのが当世流らしいが、何を言うか分からない若僧たちに言いたい放題言わせた。そういう鷹揚なところがあった。
(大屋達治「爽波の残したもの」「俳壇」1992年3月号)
 
 自身の弟子であるかどうかに頓着せずに若い俳人たちに期待した爽波らしいエピソードです。同時に、「何を言うか分からない若僧たち」が「好き放題」にベテランを批評するという「木の椅子句会」の気風も偲ばれます。この合評の記録は、当時の爽波の主宰誌「青」をひもとけば、見つかるかもしれません。
 
 氏には『俳句の玉手箱』
(2008年)というエッセイ集があります。俳壇内外の友人・知人たちとの思い出をつづった交遊録です。この本を開くと、いかに氏が人との縁を求め、大切にしてきたのか、その一端を知ることができます。
 
 『奥の細道』のシンポジウムが機縁となったドナルドキーンとの交流、美術家・篠田桃紅に対する敬愛の思い、連句の手ほどきを受け、死後は膨大な句帖を引き取った暉峻康隆との縁、俳壇を引退した中村苑子の生前葬「花隠れの会」のプロデュースの顛末、著作に読者カードを送ったら突然掛かってきたという鶴見和子からの電話、講演会に出向いた縁で聖路加病院の細谷亮太氏を紹介し、その告別式の司会をすることになった小田実との短い交流。
 
 同書でも語られていることですが、2000年代以降の黒田氏は、最晩年の金子兜太の顕彰をもっとも精力的に行った存在でもありました。聞き書き本『語る兜太』
(2014年)など、兜太に関する書籍を矢継ぎ早に企画し、送り出したのです。それらは戦後俳句の旗手であった兜太の姿を知らない一般の読者にまで届きました。黒田氏は、俳人として、そして「存在者」としての兜太に心酔し、師系や派閥の垣根を越えて、兜太という人物を、広く知らしめようとしたのでした。2018年に兜太が没してからも、研究雑誌『兜太 Tota』に全面的に協力するなど、積極的な評価をつづけました。
 
 20世紀の黒田氏は、俳句という文芸を一般に喧伝するタレント的な存在でもありました。一方、今世紀に入ってからの氏には、上に述べた兜太顕彰に顕著なように、俳句界の内部に目を向けた仕事が目立ちます。もっとも重要な事績が、「俳句」誌上での連載後、『証言・昭和の俳句』
(上下巻、2002年)として刊行されたインタビュー集です。桂信子、鈴木六林男、草間時彦、金子兜太、成田千空、古舘曹人、津田清子、古沢太穂、沢木欣一、佐藤鬼房、中村苑子、深見けん二、三橋敏雄ら、多くが当時晩年を迎えつつあった昭和俳句の巨星たちの証言を聞き取った、貴重な資料でした。
 
 同書は、最晩年の2021年にはコールサック社から増補新装版として復刊され、収録されている俳人たちの存命時の活躍を直接には知らない世代の読者にも届きました。現代俳句協会青年部が黒田氏を招いて勉強会を開くなど、次の世代への橋渡しが達せられた本になりました。
 
 黒田氏の旺盛な活動を振り返り、その多彩さ、大きさに、あらためて驚かされます。「俳句αあるふぁ」でもたいへんお世話になりました。謹んで哀悼の意を表します。(了・編集部)