『証言・昭和の俳句 増補新装版』を読む②

【2】「昭和の俳句」を方向づけた戦前・戦中の俳壇の熱気
(俳句αあるふぁデジタル特別版:2022年3月発行「愛の歳時記365日/第25回毎日俳句大賞作品集」初出)


前回、『証言・昭和の俳句 増補新装版』のタイトルにある「昭和の俳句」とは、単に時代区分によって機械的に俳句の歴史を区切る言葉ではなく、独特のニュアンスを持っているのだとした上で、同書に書き下ろされた二人の読み手の感想を並べました。

 
「昭和」の俳句とは、人間関係の動きが激しいもので、それは現在の俳壇には見られない雰囲気らしい――。今回は、本書を読むうえで知っておきたい、昭和俳句の歴史を見ていきましょう。
 
「激動の昭和」という言い回しを聞いたことがある方は多いでしょう。高い文化レベルを達成した戦前期から、日中戦争、太平洋戦争と戦争が続く時期を経て、復興、高度経済成長、不況、バブル経済と、世相があわただしく転変した昭和を言い表す言葉です。かつて俳句は、この昭和という時代とぴったり寄り添って、時代ごとの空気を反映してきました。
 
昭和俳句は、俳壇の中心であった「ホトトギス」の花形作家であった水原秋櫻子が、客観写生という価値観に異を唱えて離脱するという事件で幕を開けます。秋櫻子が主宰した「馬酔木」には、「ホトトギス」で都会的な作風を示していた山口誓子が加入したのを筆頭に、守旧的な俳句に飽き足らなかったり、秋櫻子が次々に発表する芸術性の高い俳句に共鳴したりする若い俳人たちが集合します。彼らの一部はやがて同時代の社会の状況や文化の水準を俳句に反映させるべく、秋櫻子の膝下から離れていっそう前衛へと進みました。また同じく「ホトトギス」作家であった日野草城が「旗艦」を創刊して人気を集めたように、この時期には尖端的な俳句を発表するグループが多出しました。そうして徐々に形作られていった新しい潮流を新興俳句といいます。

 
卒業してから、やはり俳句が面白いなと思いだして、自分で勝手に作ってたんです。阪急百貨店の店頭にいろいろな俳誌が並んでいて、それを見たんですが、どうしてもこんな古くさいものはいやだ、やっぱりやめようかなって。(…)もうやめようと思っていたころ、ある日、阪急の店頭で「旗艦」を見つけてページを開いたら、詩集のような俳誌で、句が一行にサーッと組んである。とってもきれいな紙を使ってあって、いいなあと思ってね。巻頭が藤木清子でした。早速それを買って帰りました、もう、ここに決めたって。それが草城先生の主宰誌「旗艦」だったんです。(「第1章 桂信子」)

たまたま神田の古書店に注文した国語の学習参考書のなかに俳句雑誌の「句と評論」が紛れ込んでいた。これが昭和九年の終わりのことです。(…)ちょうどその年代は新興俳句に入ってましたから、とても新鮮な感じで、ひとつやってみようかなと思って投句しました。渡辺白泉が同人になったばかりのころで、こちらも心臓を強くして、見てくれませんかって手紙を出しましたら、喜んで見てくださった。便箋で四、五枚くらい、こうでなければいけない、ああやればいいと指導してくださる。(「第10章 佐藤鬼房」)

 
さまざまな偶然から新興俳句の熱気に接し、驚き、魅了されたという証言です。この世代にとり新興俳句は、明治時代から脈々と続く「ホトトギス」と同列に一般の読者としてアクセスしうるものであり、あまつさえ、世間一般の「俳句」のイメージとは異なる鮮烈な魅力を放っていました。新興俳句の第二世代といえる長老の肉声を書き留めるラストチャンスを捉えたのが『証言・昭和の俳句』の意義の一つといえるでしょう。このことは、彼らの一つ上の世代が誰に当たるのかを考えてみるとはっきりします。例えば現在も愛唱される〈頭の中で白い夏野となつてゐる〉(『白い夏野』1936年)で知られる高屋窓秋は、秋櫻子の膝下から出立し、戦前期の新興俳句のスター的存在でしたが、1999年に88歳で死去しています。新興俳句の草創期を知る俳人たちの大部分は当時すでに物故しており、窓秋はその最後の一人ともいうべき俳人でした。長い戦後を生きた山口誓子も、1994年に92歳で亡くなっています。
 
戦前・戦中の俳壇では加藤楸邨の「寒雷」にも若き俳人が参集しました。楸邨は「馬酔木」の俳人でしたが、新興俳句とは距離を置く立ち位置でした。『証言・昭和の俳句』では、金子兜太、古沢太穂、沢木欣一の三人が楸邨門です。

 
自分はどうも先生の選が納得できん、ちょっと寒雷集批判の文章を書かせてくれと言って二ページ書いたら、それを堂々と出してくれました。楸邨の選には抒情性が足りない、かさかさしてだめだとかいうような、かなりきついことを書いたのですが、あれを出してくれた。(「第4章 金子兜太」)
 
加藤楸邨先生が雑誌を出されるというので、「馬酔木」にたった一回、その広告が出たんです。(…)それをたよりに「寒雷」へ申し込んだんです。ですから創刊号から参加しているんです。それなのにぼくの名前が載っかってない。ボツなんです。下手だったんですねえ。創刊号だからみんな載っけるのかなと思ったが、そうでもないんだな。いやあ、なかなか厳しい(苦笑)。(「第8章 古沢太穂」)
 
「馬酔木」では楸邨、波郷がバリバリの新人で、たいへん魅力があったわけです。「ホトトギス」では草田男、その三人が若い人の理想だったんです。(「第9章 沢木欣一」)
 
この三人が本格的に俳壇で知られるようになるのは戦後のことですが、すでに戦前・戦中から、楸邨のもとにめいめいに集まっていたのです。
 
沢木欣一が挙げた加藤楸邨、石田波郷、中村草田男の三人は、当時、「人間探求派」と呼ばれました。〈
((ひきがえる))誰か物いへ声かぎり〉(加藤楸邨『颱風眼』1940年)、〈秋風に立ち号外を日々手にす〉(石田波郷『鶴の眼』1930年)、〈蟾蜍((ひきがえる))長子家去る由もなし〉(中村草田男『長子』1936年)など、有季定型は墨守しながらも人間の内面へと踏み込んだ詠みぶりは、難解と言われながらも、俳句の新たな可能性を感じさせるものでした。

このように戦前・戦中の俳句には新興俳句と人間探求派という二つの磁場が働いていたわけですが、戦時の思想統制が本格化する1940年以降、中心的な雑誌「京大俳句」をはじめとする新興俳句陣営は、厭戦や自由主義に加担するものとして弾圧の対象となり、検挙者が相次ぎます。検挙された渡辺白泉・西東三鬼に近侍していた20歳の三橋敏雄は、この弾圧事件を目撃した一人でした。
 
雑誌を出すと所轄の警察に必ず届ける。そこに載っている句会にふらっと特高が現れる。別に身分を隠してるわけじゃなくて、「みなさん、お盛んですね」とか何とか言って冷やかしのようにやってくるから、「あなたも一句、出しなさいよ」とか言うくらいで、こっちには警戒心なんてないんです。だけど、向こうの本当の意図はわかりません。(…)「京大俳句」の一斉検挙は関西方面の第一次、東京方面の第二次と続いた。しかし、西東三鬼はいちばん先に逮捕されそうなのにどうしたことか残されている。本人もどうして来ないんだろうと不思議がっていたほどでしたが、新聞報道もないので、実際の様子を知るために京都に行ったりしていました。(「第13章 三橋敏雄」)
 
いまでも俳句雑誌には句会のスケジュールが載っていますが、その情報をもとに公権力が句会を監視にやってくるという時代があったのです。「新聞報道もないので」というのは、言葉通り、思想弾圧によって逮捕者が出たという情報は報道されなかったということです。この時代の空気を三橋敏雄は次のように証言します。
 
思い出はいろいろと尽きませんが弾圧事件を介在させて俳壇の空気がガラッと変わってしまう。無季俳句なんて堂々とは発表できなくなる。師事していた白泉も三鬼も捕まったという状態では、句会は残党とやってましたけれど、作品発表はやめにしました。(「第13章 三橋敏雄」)
 
新興俳句陣営はこの弾圧事件によって沈滞します。この時期には人間探求派の中村草田男も弾圧の危険を身に感じ、「ホトトギス」への投句を中止しています。また戦局の悪化に伴い、そもそも紙が不足するようになって、俳誌は統合され、句集の出版もおぼつかなくなります。昭和の代表的な句集を年代別に再録する『現代俳句大系』(全12巻、角川書店)を見ると、昭和19年1月に刊行された中村汀女『汀女句集』の次は、昭和21年7月刊行の山口誓子『激浪』ですから、敗戦前後の俳壇がいかに活気を失っていたことか。時代の波に飲み込まれたのは決して前衛寄りの俳人だけではありませんでした。守旧派陣営の総大将・高浜虚子に師事した深見けん二氏は次のように語ります。
 
 (注――虚子には)昭和十七年に〈一切の行蔵寒にある思ひ〉、昭和十八年に〈寒鯉の一擲したる力かな〉という句がありますが、戦時下でなかったらこういう句はできなかったのではないか。追い詰められたなかで、どんなかたちにしろ、なお自らを恃すということがなければできなかったのではないか。(「第12章 深見けん二」)
 
日本文学報国会俳句部会会長として国策に奉仕した虚子を、権力に虐げられた新興俳句陣営と同列に捉えることはできませんが、深見氏のこの発言は、虚子とて戦争の抑圧とあながち無縁だったわけではないということを示唆しています。
 
昭和時代には、新しい俳句表現のありかたを模索する熱気に、若き人々が吸い寄せられていきました。その熱気は、既存の俳壇もろともに、やがて戦争に飲み込まれていきました。『証言・昭和の俳句』で語られているのは、戦前・戦中のめまぐるしい変転のなかで次々に登場した魅力的な俳人への憧憬、そして、その俳人を介して生まれた俳人同士の連帯感といえるでしょう。かつ、こうした人と人とのつながりは、戦後、ふたたび活発になっていきます。
 
  
  *次回は、戦後の俳句史を眺めてみましょう。