『証言・昭和の俳句 増補新装版』を読む③

【3】戦後俳句のはじまり――紙不足・新雑誌・復員
 


『証言・昭和の俳句 増補新装版』を読み進めるうえで知っておきたい俳句の歴史を紹介する本シリーズ。今回は戦後の俳壇の様相に触れます。

 
敗戦後の日本は、GHQの検閲があるとはいえ、戦時中と比べれば格段に自由な出版活動が行えるようになりました。いまも発行されている岩波書店の雑誌「世界」が創刊されたのも戦後間もない1946年のことでした。世間では性風俗や猟奇系の記事を掲載する娯楽雑誌が雨後の筍のように創刊され、これらは三号(三合)で潰れるという洒落で、当時流通していた粗悪な酒の名前にひっかけて「カストリ雑誌」と呼ばれました。雑誌創刊ブームは俳壇とも無縁ではなく、久保田万太郎の「春燈」、大野林火の「濱」、松本たかしの「笛」、沢木欣一の「風」、中村草田男の「萬緑」、中村汀女の「風花」、山口誓子の「天狼」、橋本多佳子の「七曜」などの名だたる俳誌が、敗戦から三年以内に出そろいました。
 
しかしながら、雑誌の創刊にはとある障壁がありました。社会全体が戦時中から続く物資不足に相変わらず悩まされるなか、紙も配給制となっており、雑誌の発行に必要なぶんを確保するのが大変だったのです。『証言・昭和の俳句』にも、紙不足に関する証言が複数残されています。例えば鈴木六林男は、西東三鬼が山口誓子を担ぎ出して「天狼」を創刊しようとした際、三鬼から、六林男が発行していた「青天」を譲渡するよう依頼されたといいます。
 
「青天」を譲ってくれと言ってきた理由としては、戦後で用紙が不足していましたから、新規の雑誌を出すのは許可しない。ただし、発行実績のある雑誌のあとを継いでいくんだったらいいと、有馬登良夫や高屋窓秋などが知恵を貸してくれた。(「第2章 鈴木六林男」)
 

紙の融通をめぐる人間模様にはこんなものもあります。
 
知り合いのある印刷会社の社長が、戦後の紙の統制のときにぼくに紙を一連、譲ってくれたんです。「君はそういうことをやっているから、何かのときに紙が必要なことがあるだろうから、公定価格で譲ってやる」って、親切にね。一連ってかなりあるもんですよ。八畳の座敷をいろいろな材料の置き場にしていましたが、そこへ置いていたんです。そんなとき林火さんが「濱」を出したいんだが紙がないので印刷屋さんがなかなか引き受けてくれないと言うから、じゃあ、ぼくが持っている紙をあげるから、それでやりなさいと言ってね。(「第8章 古沢太穂」)
 
太穂は戦前、喀血の療養中に林火の添削を受けていたことがありました。これはその恩返しだったのです。
 
金沢在住の沢木欣一は、「風」の創刊事情をこう証言します。
 
金沢は戦災で焼けなかったから、軍隊が紙なんかをたくさん持っていて、ダワダワに物資放出で紙が手に入ったんです。東京ではとうてい考えられないことです。それで、明治印刷という、古い、北陸一くらいの印刷所の社長を知っていて、「いつでもやるから、やりなさい」と言ってくれたので、それなら若い者を集めてやろうかというので始めたんです。金沢だから出すことができたんですね。(「第9章 沢木欣一」)
 
今では想像もつかないことですが、戦後には紙を入手できるかどうかが文学の大問題でした。
 
戦後になって雑誌の創刊が相次ぐなかでも、とりわけ「萬緑」と「天狼」の出現は俳壇を賑わせました。中村草田男と山口誓子という、戦前から活躍するスターがついに自分の雑誌を持ったというインパクトたるや。津軽地方で俳句を作っていた成田千空は、「萬緑」の創刊に馳せ参じた一人でした。
 
はじめて巻頭になったときはうれしかったなあ。昭和二十三年一月号でした。(…)「萬緑」に参加してみると文芸意識の高い人が多く、うれしかったのですが、遅刊続きで、ようやく出た号でした。余寧金之助、香西照雄、岡田海市、堀徹、川門清明、橋本風車、貞弘衛ら多士済々なのに、惜しむらくは遅刊続きでした。しかし、その時代の先生のエッセイと作品はきわめて良質のものでした。(「第5章 成田千空」)
 

中央のインテリジェンスがひしめくなかで、一地方の自分が巻頭を取ったという喜びがありありと伝わる証言です。津軽地方の無名俳人まで見落とさなかった草田男の、主宰としての力量が想像されます。
 
もともと短歌を作っていた津田清子は1948年に、「天狼」の僚誌として創刊され、橋本多佳子が指導していた「七曜」の第一回句会に出席したことがきっかけとなり俳句に転向します。多佳子の家に日参して風変わりな俳句を見せてくる清子に多佳子は困惑し、次のようなやりとりに至ったといいます。
 
多佳子先生が「あなたの俳句にはどうもわからないところがあります。誓子先生に見てもらってください」とおっしゃって、伊勢の鼓ケ浦で療養しておられた誓子先生のところへ行くことになったんです。誓子先生はちょうど御自分の句の変動期だったんでしょうか。私のできそこないの俳句が先生のおめがねにかなったというか、無理に合わせてくださったのかもわからないのですが、何を書いても誓子先生が「ほうっ!」と言うてくださるから、なんだか俳句を作るのが楽しくなりましてね。(「第7章 津田清子」)
 
多佳子は戦前から誓子に師事しており、自身の俳句観では捉えきれない若き弟子を、師に預けたのです。「天狼」には多佳子をはじめ、戦前・戦中から誓子に近侍した新興俳句陣営の作者が蟻集するばかりでなく、清子のような戦後の新しい才能をも吸収して、たちまちに俳壇の一角を占めたのでした。「天狼」は創刊直後から数年にわたって、俳壇を巻き込みながら、「根源俳句論争」と呼ばれる難解な論争を展開し、俳句の本質的な方法論を追究してゆくことになります。
 
さて、戦後期の証言でもう一つ注目したいのは「復員」への言及です。戦後俳壇のスタートは、出征していた男性俳人たちの復員なしには成り立ちませんでした。
 
久保田さん(注――久保田月鈴子)は非常に積極的な人だから、戦前はそれほど目立たなかったけれど、戦争から帰ってきてから「寒雷」にたいへん協力してますね、いろいろな運営面でも。それから、久保田さんがよく先生(注――加藤楸邨)を叱っている風景を覚えています。それぐらい積極的な人でした。(「第4章 金子兜太」)
 
兜太自身、終戦後の約一年を捕虜として過ごしていました。初期の代表作〈水脈の果(はて)炎天の墓碑を置きて去る〉(『少年』1955年)は復員の際の句です。
 
佐藤鬼房の証言も見ましょう。鬼房は1940年に出征してから捕虜生活を経て復員するまで6年以上も外地で兵士として過ごした俳人です。南京にいた頃、鬼房と面会するために一等兵だった鈴木六林男が部隊から脱走してくるという、胸の熱くなるような体験もしました。その鬼房が復員を果たしたのは1946年の5月のことでした。
 
ちょうど私も肺炎を起こして病気をしておりましたから、リバティ型の小型の輸送船に乗って、名古屋に上陸するわけです。あとは静岡、仙台の国立病院に入院して、もう大丈夫だというので帰ってきました。もっともこちらも帰りたいしね。うちへ帰るわけです。鈴木(注――鈴木六林男)たちとは連絡が取れてましたから、すぐに「青天」に参加するわけです。戦後の二十一年六月ですね。(「第10章 佐藤鬼房」)
 
病気を抱えて復員し、本土で入院もしながら、復員の翌月にはさっそく鈴木六林男らの句友が発行する「青天」に加わったというのですから、驚くべきはやさです。
 
紙を確保できなければ雑誌も出せないという混乱のなかで、復員する男性俳人たちの合流を待ちつつ、新旧の俳人が入り乱れながら、新しい俳壇風景が形成されていった――『証言・昭和の俳句』からは、当時のそんな空気を読み取ることができそうです。