『証言・昭和の俳句 増補新装版』を読む⑤

【5】時彦と曹人の「昭和の俳句」

1950~60年代は、社会への批判的意識を強く持つ俳人が多出した社会性俳句の時代でしたが、一方で生産と消費がともに増大し、経済活動が活発化した時代でもありました。高度経済成長と呼ばれるこの社会状況を支えたのが企業のサラリーマンたちでした。当時の日本におけるサラリーマン層の厚さは、森繁久彌の「社長」シリーズ(1956~70年)やクレージーキャッツの「日本一」シリーズ(1963~71年)など、サラリーマン社会を題材とする喜劇映画が大流行することからも想像されます。

サラリーマンの中にも労働環境や待遇の改善を求めて労働組合活動に取り組む者が一定数いました。日本銀行で労組に専従した金子兜太もその一人です。しかし兜太はおよそ十年間、労組への取り組みが疎んじられて地方を転々と異動しつづけることとなりました。かように労組活動は出世を遠ざける要因であり、はじめから敬遠するサラリーマンも多かったのです。クレージーキャッツの映画「サラリーマンどんと節」(1962年)の主題歌「ドント節」は〈サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ 二日酔いでも寝ぼけていても タイムレコーダーガチャンと押せば どうにか格好がつくものさ〉と歌いますが、ここには安定を志向するサラリーマンの複雑な気分が反語的に示されています。実際のサラリーマンが「気楽な稼業」ではなかったのはいうまでもありません。

『証言・昭和の俳句』の13人のインタビューのうち、草間時彦と古舘曹人の二人は生涯を通して論争や前衛表現とは無縁で、俳句の歴史を眺めるときに、「何が新しかったのか」という視点では説明しがたい存在です。しかしこの二人は、ともにサラリーマンという自己意識が強かったという共通点を持っています。

時彦は石田波郷の「鶴」に依ってサラリーマンの哀愁を詠んだ俳人でした。〈冬薔薇や賞与劣りし一詩人〉(『中年』1965年)、〈秋鯖や上司罵るために酔ふ〉(同前)、〈八つ手の実停年以後の人さまざま〉(『淡酒』1971年)――「賞与」「上司」「停年」といったサラリーマン生活の言葉を俳句の表現に持ち込むことに時彦の特色がありました。彼は戦後、職を持たなかった青年時代に水原秋桜子の「馬酔木」に投句していましたが、のちに秋桜子の選に疑問を持ち、波郷の「鶴」に移ったという経歴を持っています。その時彦が秋桜子の選の印象を次のように述べています。

秋桜子の俳句は衣食に足った人の俳句なんだ。ところが、こっちは衣食に足りないで失業して困ってるんだ。その人間が衣食の足った選者のところに出しても理解してもらいにくいんです。(「第3章 草間時彦」)

時彦にとり俳句ははじめから生活と不可分なものだったようです。この点は、同時代の社会性俳句の志向するところとも近い感覚があったといえるでしょう。

曹人は戦後、太平洋炭礦に入社しますが、彼は戦後の労働基準法が制定されて最初に採用された社員だったといいます。炭鉱で坑員に憲法を講義する仕事にも従事したようです。坑員との距離の近さからかえって経営者という仕事がばかばかしく感じられたこともあったそうですが、その後も退職まで経営者側の立場で炭鉱に立ち、争議の解決等に携わります。第4回で取り上げた古澤太穂のように、この時代、労働者に同調し、支援する俳人が多く、俳句史が積極的に記録するのも彼らの姿になりがちなのですが、一方には、曹人のような立場にあった俳人もいたわけです。

そんな時彦と曹人の談話は、俳句をめぐる経済史や政治史のような色彩を帯びています。この二人は昭和50年代、俳人協会にて角川源義が主導した俳句文学館の建設・運営に役員として従事するという共通のキャリアを持っています。時彦は製薬会社の定年(55歳)と同時に俳人協会の事務局長に就任、3年後には俳人協会の理事長にのぼりつめました。曹人は勤め先の副社長になったのち、俳人協会理事に就任しています。

角川さんが持っている土地は非常に不便なところばかりです。それで、角川源義さんがその土地を売って金を作って、どこかの払い下げを受けた。その時の大蔵大臣が水田三喜男さんです。それじゃあというので水田さんがわざわざ大蔵省の財産目録を調べてくれた。それで現在の新宿区百人町の土地を見つけてきて、払い下げてもらった。建てるについては国から二億円だかの補助金をもらった。それは田中角栄さんのところに陳情に行きましたら、ヨッシャというのでできたんだ。足りない分は笹川良一さんなど、ほうぼうからもらったんです。(「第3章 草間時彦」)

そうするうちに募金をやろうという提案があって、草間時彦、松崎鉄之介、有働亨の三人にはじめて相談した。募金は成功して、七千万円を集める予定が一億円を超えたんです。そのとき角川さんはすでに病床にあったので、私が角川さんの入院先を訪ねました。(中略)病室に入ったら、角川さんは私を抱きかかえんばかりにして「いやあ、よかったなあ」と言うんですよ。お金が集まってよかったということです。それが角川さんとの最後のお別れだったですよ。(「第6章 古舘曹人」)


田中角栄や笹川良一の名前が出てくる俳句史、病床で金銭の話をする角川源義が描かれる俳句史が、他にあるでしょうか。「俳壇」という言葉があるように、俳人が集まり、そこに社会が生まれる以上、名句や論争ばかりが俳句の歴史ではありません。この二人の談話の貴重性はそこにあるように思われます。

この二人には、後半生において結社から距離をおいて孤高に歩んだという共通点もあります。時彦は1976年に「鶴」を退会し、その後は無所属を貫きました。波郷の没後に「鶴」を継承した石塚友二体制と石田家との対立や、俳人協会の理事長として目撃した「主宰者という権力の座、それにからむ金銭」の「ごたごた」が嫌になったというのがその理由でした。彼には〈甚平や一誌持たねば仰がれず〉(『桜山』1974年)という句もあります。

曹人は、師事していた山口青邨が1988年に没したのち、青邨の遺志であったという「結社一代論」に基づいて師の「夏草」の終刊に奔走するのですが、そればかりか1994年には俳句の筆を折ることを選びました。74歳の老い支度ののち、彼は2010年に90歳で生涯を閉じました。年譜では断筆の理由を「老齢のため」としていますが、インタビューを読むと、それとはやや異なる不思議な理由が語られています。

平成三年、BS衛星放送の「俳壇の宗匠たち」で私個人は実験ができたんです。みなさんには黙っていたけれど、家で写生して一時間で百句を作るんです。その日、二句だけ残す。そして二、三日たって、また百句作って二句残す。それを二、三回繰り返し、最後に全体から二句だけ残して「宗匠たち」の会に出るんです。そして、そこで自由な発想で俳句を作っていく。だから、もっていった二句はだめだとわかったら成功なんです。私はそういう実験の上、それで句作をやめるという決心がつきました。(「第6章 古舘曹人」)

「それで句作をやめるという決心がつきました」の「それで」が指すものは曖昧模糊としています。おそらく、こだわりなく「自由な発想」で作る俳句のたしかさを感得したから、といったような意味合いなのでしょう。実験に成功したから、俳句を感得したから、人生に並走してきた俳句をやめるという思い切りのよさは、諦観まじりの態度とはまた異なりますが、時彦と似通うところがあります。このクールさは、二人の俳人生活が「サラリーマン」的であったことと無関係ではないように思われます。

金子兜太、三橋敏雄らのインタビューから浮き上がる句作と論争の歴史も「昭和の俳句」であれば、時彦と曹人のインタビューで語られる裏方の事情も「昭和の俳句」の一部分です。この二つが縦糸と横糸となって織りなす模様をイメージすることが、『証言・昭和の俳句』の読者の仕事ではないでしょうか。