『証言・昭和の俳句 増補新装版』を読む④

【4】東奔西走する「昭和」の俳人たち
 


『証言・昭和の俳句 増補新装版』を読み進めるうえで知っておきたい俳句の歴史を紹介する本シリーズ、今回は1950年代以降の証言に注目します。
 
1956年度版『経済白書』に載った〈もはや戦後ではない〉というフレーズの流行が象徴するように、日本の復興は朝鮮特需などの影響で急速に進行し、高度経済成長期に突入していきます。それと同時に戦中は抑圧されていた、思想性や社会性を志向する運動が日本中で活発になっていきます。日米関係や労働問題、大学運営などさまざまなトピックを社会の課題として主体的に捉える意識が一部の大衆まで拡散していった時期です。俳句もこの世相と無関係ではありませんでした。口火を切ったのは、社会性と詩性を止揚する俳句観を句集『銀河依然』(1953年)のあとがきで表明した中村草田男でした。これが契機となって社会性俳句の潮流が生まれます。連合軍による占領が終了したのは1952年春ですから、まさに独立国として日本が再出発したばかりのことでした。
 
連作「吹田操車場」で1957年の現代俳句協会賞を飯田龍太と同時受賞した鈴木六林男は、社会性俳句の中心人物でした。「吹田操車場」は〈殉職碑前の凍砂踏み通る〉〈燈の暗きあたりの貨車も寒気の中〉など、列車の組成や入替えをする操車場を暗いムードで詠んだ連作です。『証言・昭和の俳句』で六林男は、この連作を作るために停車場に取材した折のことを語っています。
 
行ってわかったことは、操車場のなかでは機関車がヘッドライトをつけないということ。転轍手の目がくらんで轢き殺されるから。操車場のいたるところに墓があります。それと、転轍手は一日に四十キロ歩くと言うてましたね。(「第2章 鈴木六林男」)
 
死と隣り合わせの作業に従事する労働者への視点が盛り込まれた連作だということがわかります。このように当時は、大衆との連帯の意識で俳句を詠む作者が多くいました。共産主義者が国鉄の列車を転覆させたとする「松川事件」の冤罪疑惑(のちに冤罪が確定)や、米軍に納入する砲弾の試射場設置に反対する「内灘闘争」を精力的に支援した古沢太穂は、とりわけ社会との関わりに意識的だった俳人でした。
 
内灘は学生ばっかりでしたね。学生たちと一緒に隅っこの筵敷きのところに寝かせてもらって、レポーターをやったり、村の外れの権現の森に座り込んでいる漁師のおばちゃんたちを応援に行ったり、とにかく三十分以上も砂丘の砲弾の飛ぶ下を毎日歩くわけです。(「第8章 古沢太穂」)
 
太穂が自選五十句のうちの一句として挙げる〈赤とんぼころがり昼寝の漁婦に試射砲音〉(『古沢太穂句集』1955年)はこの折の作でしょう。『古沢太穂句集』には〈みたび原爆は許すまじ学帽の白覆い〉という句があります。金子兜太の代表句〈原爆許すまじ蟹かつかつと瓦礫あゆむ〉(『少年』1955年)との類似に気づく方も多いでしょう。いまでは聴く機会が少なくなったために、このフレーズの典拠に気づかない読者もいるかもしれませんが、これは当時、第五福竜丸事件によって活発化していた原水爆反対運動の場で広く歌われた「原爆を許すまじ」という歌を踏まえたものです。
 
兜太といえば、いまなお再読される一連の「造型論」も、こうした社会性俳句のうねりから生まれました。沢木欣一が「風」誌上で社会性についての意見をアンケート形式で募ったとき、兜太は「社会性は態度の問題」と回答しているのですが、その真意を兜太は次のように説明します。
 
社会主義的イデオロギーとか社会主義イデオロギーと言ったのではどうしても狭くなる。文芸の問題はそれを肉体化するところにはじまる。生なものじゃない。もっと広く、さまざまな考え方があり、それが生活のなかで消化されて態度として熟したものでなければならない。(「第4章 金子兜太」)
 
兜太の「造型論」は、こうした考えを発展させ、見たまま、感じたままを俳句にするのではなく、感動を相対化する作業の必要性を説いたものでした。このプロセスを経て作られる兜太の句はいずれも暗喩表現に満ちており、同時代の散文的な社会性俳句とは異質な方向へ向かっていきます。結果として兜太は、社会性俳句のグループに属しながらも、新興俳句運動において高屋窓秋や富澤赤黄男らが示したような芸術派の作風へと接近するように見えたのでしょう、当時の芸術派の代表的作家・高柳重信が中心となって発行していた同人誌「俳句評論」の作家群とともに、前衛派と呼ばれるようになりました。
 
「俳句評論」にも興味深いエピソードが山ほどあるのですが、ここでは中村苑子の証言から一つ紹介しましょう。のちに高柳重信と事実婚の関係になる苑子は、久保田万太郎の「春燈」に所属していた頃、印刷所で重信と知り合います。次に引用するのは、俳壇を総合するという大きな野望を抱いて「俳句評論」の創刊を準備していた重信が、苑子を連れて、「春燈」の指導者・安住敦に会いにゆく場面です。
 
私も初めて聞く構想の雑誌ですから、おもしろがって聞いていたんです。そしたら、いきなり、「ついては、この雑誌はいままでの同人誌とは違って、ぼく一人ではできないので、中村苑子をいただきたい」と言うんです。私はびっくり仰天しました。安住先生もハッと私の顔をごらんになった。先生は、私が何も知らないで高柳重信を同道して来たとは思われなかったと思うんですよ。(「第11章 中村苑子」)
 
ワンマンで知られる重信らしい逸話といえるでしょう。芸術派はこの重信の圧倒的な重力によって成り立っていました。
 
こうして社会性俳句と「俳句評論」という二つの前衛的潮流がめいめいに成長し、俳壇の価値判断は多様化していきました。では伝統俳句陣営はどうだったのでしょうか。伝統俳句の牙城である「ホトトギス」は、混沌とする戦後俳壇とは距離を置いていたというイメージもありますが、実際にはそうではありません。当時二十代にして「ホトトギス」の編集を手伝っていた今井千鶴子氏の発案で、若手を中心とした研究座談会が連載されることになったのですが、この研究座談会はのちに虚子本人が参加し、俳壇の諸作を広く取り上げて吟味する内容になっていきます。参加者の一人・深見けん二はこう語ります。
 
秋元不死男さんが角川書店の『俳句』の月評にそれを取り上げてくれましたが、たとえば「西東三鬼の〈水枕ガバリと寒い海がある〉はいいよと言っている。自分としては虚子からそういうふうにほめられるとは思わなかった」とあります。(「第12章 深見けん二」)
 
虚子が三鬼の俳句に好意的に言及していたとは、同時代の秋元不死男でさえ驚いたのですから、私たちにはなおのこと興味深い事実です。この研究座談会は、のちに筑紫磐井氏が『虚子は戦後俳句をどう読んだか』(2018年)で本格的に紹介しており、兜太や重信などの若い前衛俳人も取り上げられていることが明らかになっています。近代俳句の黎明期を知る虚子もその晩年に戦後俳句の混沌を意識していたのです。研究座談会は伝統俳句陣営の新しい動向であったといえます。
 
1950年代から60年代にかけての俳壇を特徴づけるのは、俳句観や主張の異なるさまざまなグループが入り乱れながらも、おのれの俳句を同時代の社会や俳壇とリンクした存在だと見なす意識ではなかったでしょうか。