本の森

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2021年以後の刊行書から順不同でご紹介します

『小林一茶の生涯と俳諧論研究』中田雅敏・著


  令和3年12月
  角川文化振興財団
  定価:3000円+税


 

 水光の号を持つ俳人(「雅楽谷」主宰)でもある著者が平成28年に提出した学位請求論文を基にして公刊した一茶論。

 

 一茶の句、散文や周辺史料を駆使して、一茶における児童・動物・農事・方言・宗教・国家意識など多角的なテーマを照射し、同時代の都市/農村社会との関わりを考察するという浩瀚な一冊ですが、とりわけ一茶研究としての価値が高いと思われるのは、属していた葛飾派との交渉がある時期から途絶え、それまでの行脚をやめて故郷に定住するようになったのはなぜかという研究史上の問題に一つの解決を与えていることです。

 

 一茶が生きた近世後期には、村を出て都市部へと移る「不耕不織の民」が増加し、無宿者となって各地の治安を悪化させ、捕縛の対象ともなり、また大局的には米の減収の遠因と危惧されるようになっていました。信濃を出て俳諧師となった一茶も「不耕不織の民」の一人です。一茶が俳諧師として活躍しはじめた時期、俳諧は庶民に浸透して通俗化し、博奕の要素も持つようになり、俳諧師は幕府の取り締まりの対象にさえなっていました。著者はこの一茶の立ち位置が、高級官僚揃いの葛飾派を離脱する原因となったのではないかと見立てます。

 

 「不耕不織の民」に警鐘を鳴らした書物の一つに、武陽隠士なる人物が著した『世事見聞録』があります。武陽隠士の正体はこれまで不詳とされてきましたが、中田氏はいくつかの史料や状況を根拠として、武州の中村知足(敲石)と推定し、この書物の存在が一茶の行動に影響を与えていたと論じます。『世事見聞録』を重視して一茶の伝記を補うというこの視点も、本書の独自性の一つです。

 

 放浪からの定住という人生のあり方や、放埒にして味わいのある句の数々から、今なお多くの読者に愛される一茶ですが、その歩みについては詳らかではない点も残されており、まして一般向けの書物には学術界の成果が反映されていないこともしばしばです。近世後期の日本社会という枠組みの中で一茶を捉え直した本書に教えられるところは多いでしょう。(編集部)