本の森

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2021年以後の刊行書から順不同でご紹介します

『種袋』南川閏句集


  令和3年4月
  青磁社
  定価:2000円+税


 

 今年(2022年)は戦後77年。よく言われることですが、第二次世界大戦期の生活を直接に体験したことのある方は年々減少し、記憶の継承ということが強く叫ばれます。俳句の世界でも、当時の句を再読したり、当時を回想した句を詠みついだりすることが数々試みられてきました。南川閏氏の句集『種袋』が収める「昭和日々」96句もその一つです。南川氏は1937年、三重県に生まれた方。「昭和日々」は句集のために書き下ろされた連作ではなく、所属する「古志」に折々に掲載された句から、戦時下の幼少期とそれに続く戦後の生活を詠んだものを集成した一章のようです。

 

  背嚢の金平糖や五月雨

 

 「父初召集は勝勢気分」という前書きがあります。背嚢とは兵士が背中に負ったかばんのことで、中には毛布や洗顔用品、編上靴、そして缶詰や袋の食料を入れました。兵士の多くが持っていた食料は肉や缶パン、そして金平糖です。金平糖は貴重な糖分を手軽に摂取できる甘味という意味合いだったのでしょう。戦後に多くの市井の人々がそれぞれの立場で執筆した戦争体験記には金平糖がよく出てきます。従軍した兵士が戦場で食べた金平糖の思い出のほかに、家族・親族、知人の兵士から金平糖を分けてもらった子どもの視点の回想も散見されます。掲出句は出征する父が背嚢に荷物を詰めているのを見物する子どもの視点でしょうか。まだ国内の物不足は深刻ではなかった頃のこと、無邪気な子どもは、大人がかばんに金平糖を入れてるなんて変なの、と思っていたかもしれません。

 

  時計なき復員兵や青嵐

 

 父の復員と解釈してもいいし、はたまた当時は町に溢れていた多くの復員兵一般の印象と読んでもいいでしょう。戦中の戦闘、そして戦後の復員という大混乱のなかで、懐中時計を失くしてしまった兵士。どの便で帰れるかもよくわからず、わかったとて家族に手紙が事故なく届くかも不明瞭なこの時期、まして時計がなければ、まさに着の身着のまま、細かいことは考えず、ただただ待つ人のある土地の駅をめがけて行き当たりばったりに帰るしかないということも多かったに違いありません。もっとも現代とは違って、時計や連絡手段がなくとも、いつか目的地に辿り着けば十分だった時代でもあります。

 

  継ぎのなき靴下を履き聖夜待つ 

 

 「教会の英語教室」という前書きがあります。終戦直後からの数年間、日本では空前の英語ブームが起きていました。日本が米国の占領下になった途端、これからの時代は英語を話せることが重要だという気運が突如として高まり、『日米会話手帳』という冊子が大ベストセラー化、ラジオの英会話講座には聴衆がかじりつきました。子ども時代の作者もそうした世の中の空気に触れつつ、英語の勉強に夢中になったのでしょう。聖夜という特別な日をきちんとした格好で迎えるという異文化体験も、戦中期に育った少年にはきらやかな体験だったと想像します。〈年玉やおとなの辞書をわれも欲し〉という句もありますが、この「辞書」も英語の辞書でしょうか。おもちゃのような豆辞典ではなく、大人が使っているような革表紙の辞典を買ってみたいものだと願ったのです。

 

  リヤカーで下宿移りし春休み

  卒業子寝押しズボンで証書受く

 

 こちらは1950年代に入ってからの出来事でしょうか。リヤカーを引いた引っ越しも、家庭用アイロンやクリーニング店頼りではなく布団の下に敷いて体重で皺を伸ばす「寝押し」のズボンも、「昭和」の学生らしいアイコンです。

 

 以上、「昭和日々」の章を読みましたが、その他の章にも佳作があります。

 

  抜参来よとや妹の古稀の文

  薄氷の粗き面よ風一夜

  丸善を抜け出て秋や日本橋

 

 一句目の「抜参」(ぬけまいり)とは、親や店の主人などに黙って在所を抜け出してお伊勢さんにお参りすること。そうそう村や町から出る機会のなかった江戸時代の風俗です。そして掲出句の場合、著者は三重の出身ですから、妹から「抜参」に来いと手紙で言われたというのは、つまり、故郷に顔を出せ、という意味。それを「抜参」と表現する古稀の妹の茶目っ気が詠まれています。

 

 二句目は薄氷の表面が夜通しの風に荒んだという質感を発見した句。「風一夜」という硬質な表現にも見どころがあります。三句目は、建物を出たら不意に秋らしさを感じたというのを「抜け出て秋や」と表現したところが眼目で、日本橋の丸善という場面設定にも心惹かれます。(編集部)