本の森

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2021年以後の刊行書から順不同でご紹介します

『兜太を語る 海程15人と共に』董振華編


  令和5年2月
  コールサック社
  定価:2000円+税


 

 戦後から平成末期までの俳句界に大きな足跡を残した金子兜太。本書は兜太の「海程」に属したさまざまな世代の15人の俳人がインタビュー形式で自身と兜太との関わりを追想した一冊です。兜太に「中国の孫」と呼ばれた外国人門下生・董振華氏がインタビュアーを務めています。
 
 山中葛子・武田伸一・塩野谷仁の三氏は昭和37年の「海程」創刊に馳せ参じた古参同人です。もともと「風」や「俳句評論」に参加するなど戦後の前衛俳句の渦中にいて兜太の有名な評論「造型俳句六章」も連載中に読んでいたという山中氏。秋田・能代で高校時代から「氷原帯」「青年俳句」「寒雷」に投句し、「寒雷」の兜太選句欄「森林集」への熱意からのちに「海程」に参加した武田氏。同じく「森林集」を機縁として「海程」に参加し、定年後は「海程」から唯一兜太の許しを得た雑誌として「遊牧」を創刊した塩野谷氏。いずれも昭和30年代の俳壇の雰囲気を知る生き証人です。武田氏は、ある時期からの「海程」の雑詠選は、兜太と武田氏との共選という体裁にはなっていたものの、実際には武田氏の単独選だったという重要な証言もしています。
 
 若松京子氏の入会は昭和53年。氏は昭和44年に「水鳥」に入会したのち、「海程」入会前には「渦」「花」と関西圏の俳誌に属していました。前衛俳句のピークは過ぎた時期でしたが、それでも関西俳壇は自由の空気に満ち、幻惑の連続だったといいます。
 
 以上四氏のインタビューで共通して重大事件として語られているのが昭和60年の名古屋全国大会です。今では知る人も少なくなりましたが、この年まで「海程」は、あくまで同人誌という体裁でした。しかしこの大会で阿部完市がだしぬけに――実際には数名の関係者は事前に聞かされていたようですが――「海程」を兜太の主宰誌にすることを発議、議論は紛糾し、賛成多数で可決されましたが、当時の編集長を中心に若手ら数名が反対の末に退会するという結末を迎えました。主宰制となった「海程」の体制を整えるべく、兜太は奮闘していくことになります。この年に「海程」新人賞を得た堀之内長一氏は、自身を「主宰制第一期の弟子」と位置づけています。「海程」が変化した年でした。
 
 その後の兜太が「海程」で力を入れていたのは年2回開催の「秩父俳句道場」でした。香川から駆けつけて通った野﨑憲子氏、一人も知り合いがいない段階で乗り込んだ柳生正名氏など、この鍛錬の場を思い出として挙げる回想も散見されます。
 
 一方兜太は俳壇を代表する俳人として「海程」以外の場でも指導的役割を担うようになっていました。伊藤淳子氏は、昭和53年に兜太がはじめて持ったカルチャー教室の第1期生です。兜太はこの仕事を通じてカルチャーに通う主婦層の底力に驚き、彼女たちをさらに導くために「海程」に初心者向けの選句欄を創設したといいます。また群馬に縁があった兜太は高崎市でも教室を持っており、そこで兜太の口から語られる俳句の面白さに魅了された一人に水野真由美氏がいます。
 
 北海道の地で俳句を書いていた石川青狼氏は、あるとき本で〈梅咲いて庭中に青鮫が来ている〉という兜太の句に衝撃を受け、「ぜひこの人に会いたい」と思ったのが契機となって入会に繫がったといいます。愛媛の相原左義長に師事した縁で入会した松本勇二氏、北陸の地の中内亮玄氏など、「海程」で兜太に学ぶ者は全国に広がっていきました。
 
 「朝日新聞」の朝日俳壇選者も重要な仕事でした。しばらく師を持たずに句作していた宮崎斗士氏が俳句をはじめたのも朝日俳壇でした。現代の兜太論をリードする田中亜美氏も同様に朝日俳壇の投句からスタートし、のちに句会に出て「朝日俳壇にいつも変てこな句をよこしてくる子じゃないか。やっと来たな」と笑われたそうです。
 
 最後に登場する岡崎万寿氏は元国会議員。政界引退後、俳句に本格的に取り組み、古沢太穂と兜太に師事し、「金子兜太研究会」を設立した人物です。
 
 驚くような秘話に刺激を受けつつ俳句の歴史の一幕を垣間見しながら、兜太という大俳人の謦咳に接した弟子たちの敬愛に満ちた追想に触れて、胸が熱くなる一冊です。(編集部)