本の森

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2021年以後の刊行書から順不同でご紹介します

堀切克洋編『神保町に銀漢亭があったころ』


  令和5年3月
  発行:北辰社、発売:星雲社
  定価:1800円+税


 

 2020年5月、都内の神保町にあった居酒屋「銀漢亭」が17年の歴史に幕を閉じました。店主は「銀漢」主宰の俳人・伊藤伊那男氏(「銀漢」創刊は2011年)。証券・金融業界で長く働いた氏が、バブル崩壊を経て破綻した会社の後始末が済んだのちに開業したこの店は、やがて俳人たちの溜まり場になりました。店内では月に何度も句会が開かれ、その際には店の外まで俳人達があふれ出る活況を呈しました。その閉店は多くの俳人に惜しまれましたが、「新型コロナウイルスの件で銀漢亭は休業自粛のまま閉店となったが、潮時でもあったなと思う。前年には古稀を迎え、俳句と店の二足の草鞋は厳しくなってきていた。この年末までかな、と家族に話していたのである」(伊藤伊那男「まえがき「銀漢亭」閉店顛末記」)といいます。
 
 本書は銀漢亭への訪問を契機に俳句をはじめた研究者・堀切克洋氏が、銀漢亭の記憶を形として残しておきたいという思いから編んだ一冊です。銀漢亭を訪れたことのある約130人の俳人・俳句関係者たちが堀切氏の運営するウェブサイト「セクト・ポクリット」に寄せたエッセイを収録し、また伊那男氏が執筆した関連エッセイ等も再録しています。寄稿者によって銀漢亭の記憶の濃淡もさまざまで、それゆえに、平成後期に俳壇のサロンとしての性格を持ったこのお店の姿が多面的に描き出されています。
 
 文学史にはしばしば、この銀漢亭のようなサロンが出現します。そのことについて、歌人・田村元氏が本書所収のエッセイ「交流という遺産」にて、かつてのサロン的な酒場「ヨカロー」「ホースネック」を引き合いに出して、次のように記しています。
 
 銀漢亭は間違いなく俳句史に残る店になるだろう。私はライフワークとして、歌人ゆかりの居酒屋を訪ね歩いており、なくなってしまった店のことも少しずつ調べている。(中略)面白いのは、店で生まれた交流が生み出したものが、飲み会での与太話だけにとどまらないということだ。大正期の「アララギ」の歌人たちの活躍は「ヨカロー」での交流を措いて語れないし、山崎方代がのちに歌壇を超えた人気を獲得する作品を生み出すことができたのは、「ホースネック」での文化人たちとの交流がベースにあったからではないかと私は思っている。
 
 近現代俳句研究者の青木亮人氏は、寄稿したエッセイ「銀漢亭に立ち寄った3月のことなど」の中で、訪問の際の印象や出来事、出会った俳人、話した内容、そしてその後の、同じく俳人ゆかりの酒場「ぼるが」「砂の城」へのはしごの顛末などについて、こと細かに叙述した上で、次のように述べます。
 
 こういうサロンの「気分」は一度失われると霧消し、活字に残るのはほぼ片鱗のみとなる。そういう「気分」の貴重さは、たいてい失われた後に思い当たることが多い。気付けば店はなくなり、その「気分」は立ち寄った人々の脳裏に冬の柔らかい暮光のように薄く漂うのみだ。
 

 その意味で本書は、かつて神保町のこの店に集い、酒を飲み、店主の料理を愉しみ、そして俳句を詠んだ人々の記憶と気分を記録した、貴重な一冊といえます。連日集った常連客たちの熱気や愛着、噂に聞くこの店を訪問した遠来の客たちの憧憬と感動。さまざまな思いが活字として残り、本書の中に渦巻いています。
すべてのエッセイに目を通したあと、読者の目には、空間が作る人と人の繋がりの形が、きっと浮かび上がってくることでしょう。(編集部)