本の森

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2021年以後の刊行書から順不同でご紹介します

『水と茶』斉藤志歩句集


  令和4年11月
  左右社
  定価:1800円+税


 

 2016年に第8回石田波郷新人賞を受賞した著者の第1句集です。解説で岸本尚毅氏が「この句集を読んで感じるのは、とにかく、作者が楽しそうであり、俳句を通じて人生を面白そうに眺めている、ということです。われわれ読者もまた、この作者が遭遇する俳句現象を、面白がって眺めようではありませんか」という評を寄せています。「面白がる」という視点はこの句集を理解する上で重要な視点だと思われます。

 

 この句集の収録作の多くは類想感とは無縁であるように感じられます。

 

 その理由の一つとして、興趣のあるただごととはまた違う、微温的なナンセンスの傾向があることが考えられるでしょう。

 

  水と茶を選べて水の漱石忌

 

 句集冒頭の表題句です。飲み物が提供されるときに「お水とお茶どちらがよろしいですか?」と聞かれているような場面が、夏目漱石の忌日(12月9日)と取り合わされています。この句は上五中七と下五に読者が容易に了解できるような連想関係がありません。にもかかわらず両者が、散文であれば破格の「の」で結ばれていることで、言葉のスピード感が前面に出ています。

 

  春風や壁にパンダの相関図

 

 この句は、「家系図」ではなく「相関図」であることに妙味があります。単なる血縁だけではなく、パンダ同士の親しさまで書かれていそうな気配です。

 

  紙コップ多き祭の本部かな

 

 祭の慌ただしさを活写した句ですが、「祭の本部」という題材の選択にちょっとしたおかしみがあります。祭を詠むときに「本部」に注目するような視線のありように読者は驚き、ほほえむのではないでしょうか。

 

 季語を現代的な感覚で捉えた句もあります。堅苦しい式の雰囲気が我慢できない幼稚さのある生徒たちの雰囲気をつかまえた〈後ろから卒業式の椅子を蹴る〉、バス移動で引率の先生が眠ってしまったのを面白がる〈遠足や眠る先生はじめて見る〉は、それぞれの季語の新しい表情を見せてくれます。〈駅のホームで桃をジュースにしてもらふ〉〈豆の花テレビの端にマリオ死す〉のような句にも現代の生活者の視点があります。

 

  スヌーピーに鳥の友ある日永かな

 

 スヌーピーという物語の登場人物たちを、物語の外の視点で捉え直した上で、さらにそこに「日永」の新しい風趣を見つけるという二段構えの句です。「スヌーピー」と「鳥の友」と「日永」はどれも質感が微妙に異なる言葉で、これらを違和感なく並べることのできる著者の言葉遣いのセンスを追体験するのも楽しい一句ではないでしょうか。

 

 同時代の俳句の表現を吸収しつつ、文体の工夫に意を注いだ句に注目してみます。〈やすめればからだよくなる九月かな〉は、上五中七が口語、下五が古典文法の句です。「やすめればからだよくなる」という表現には、感じたことを五・七音に収めるという意識が働いているようですが、古典文法らしく整えるというところまではされておらず、どこか中途半端なままです。そうすることによって生じる言葉の違和感を作者は意識しているのではないでしょうか。〈病みたれば網戸の穴を広げてゐ〉は、先の〈遠足や眠る先生はじめて見る〉のような、あえて字余りにすることで余情をもたせる句とは逆に、五七五の定型で言葉を律して、その厳しさが一句の雰囲気を引き締める句です。

 

 そしてこの句集は、えも言われぬかそけさ、名づけがたい感情を詠んだ句の数々にも魅力があります。たとえば〈馬の子に大事な脚のあることよ〉は、句意だけ取れば童謡の世界観とさして変わるところがありませんが、「大事な脚」「ことよ」という述べ方が、それだけではない、子馬を尊く眺める者の視線を感じさせます。〈ほほゑめりかるたのうたのわからねば〉は、単に無知であることを恥じているというのではなく、そのはずかしさが微笑という形で表出されてしまうことに対する別の含羞があるのではないでしょうか。〈友とゐて友の姉来る草紅葉〉のような、一見すると「あるある」のように読める句にも、微妙な機微が感じ取れるように思われます。(編集部)