本の森

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2021年以後の刊行書から順不同でご紹介します

西池みどり句集『森は今』


  令和5年3月
  角川文化振興財団
  定価:2700円+税


 

 徳島市在住、「ひまわり」主宰の第7句集。軽やかで素直な言葉で自然を詠います。

 

  大虻を許せり白の花水木

 

 純白の花を掲げる花水木に虻が寄り、蜜や花粉を求めている情景を、「花水木」を主語にした擬人法で詠んだ句です。「許す」という把握と「白」という色彩のイメージの関わり合いから、自然に対する作者のまなざしのありようが見えてきます。かつて山本健吉は高野素十の〈くもの糸一すぢよぎる百合の前〉という句を「百合は気品の高い花である。ところで作者は、その気品高い花の前に、無造作に、不気味で不吉な一本の斜線を引く」と鑑賞しました(山本健吉『現代俳句 上』昭和26〈1951〉年刊)。白百合に純潔の隠喩を見出し、それを犯そうとしている蜘蛛の糸の不気味さを読み取ったのです。素十句に与えられた健吉の読みと並べたとき、掲出句の「許す」という動詞にも、多様な読みの余白が見えてくるのではないでしょうか。

 

 猪を通すな背高泡立草

 

 背高泡立草は戦後、特に1960年代後半以降の日本で地方や郊外での繁茂が問題になりはじめ、近年では侵略的外来種の代表としても知られるようになった植物です。かつての日本には存在しなかった、背高泡立草がおびただしく繁茂し、それが放置されている風景。一方「猪を通すな」という表現からは、これもやはり近年問題になっている農地での獣害が連想されます。この句の「猪」と「背高泡立草」の取り合わせは、非常に現代的な地方の風景が連想されるのです。しかし作者はこの現代の景色に寄り添い、背高泡立草のある風景を受容した上で、「猪を通すな」と、あくまで背高泡立草に対しては違和を覚えていないように詠んでいます。これも「大虻を」の句と同じく擬人化の句です。擬人化の句は、想像力を読者と共有しなければいけないという性質上、しばしばどこか類型に陥ってしまうものですが、作者の擬人化の句にはこのような、ちょっとした「ずらし」があるようです。

 

  二階から見るこそ良けれ泰山木

 

 この句の「泰山木」は、表現の上では省略されていますが、花季のものでしょう。泰山木は初夏、高枝に大きくて存在感のある花をつける木です。庭に出て下から眺めるのも悪くはないけれど、二階の窓から間近に観察し、その色合いや分厚い花弁の質感など、複雑な花の表情をじっくりと楽しむのがこの花との付き合い方としてはぴったりなのだ、というわけです。泰山木の花の本意に迫るような句といえるでしょう。花を眺めて心を動かされるという体験が素直な気持ちで詠まれているのも好ましく思われます。

 

  青柿の小ささ一生懸命に

 

 季語の本意を素直に見つめ、そして素直な言葉で書ききるという意味では、この句も印象的です。まだまだ熟れるには遠い青柿。きゅっと締まった実の固さは、触らずとも、見るだけで想像がつきます。この小さな実がやがて色を変え、柔らかくなり、人や動物の食料となっていきます。熟れた柿も秋の風情が感じられ、見ていて楽しいものですが、文字通りにあおあおとして硬質な質感の青柿もまた、夏の終わりの植物の表情の一側面を見せてくれるものだと、この句に教えられます。

 

  森は今青水無月の風と会い

 

 表題句。「青水無月」は水無月、すなわち六月の異称ですが、「青」の字を冠することで、植物が育ち、湿った空気が肌に感じられるこの季節の印象が際立ちます。その青水無月の重たい風が森に吹き込みました。木々や草花が茂りの季節を迎える森の中、植物が吹き分けられていきます。「今」という副詞と「会い」という連用形の表現の呼応のためでしょうが、この句はどことなく、いまこの場に視点人物が立っているのではなく、きっと今頃森に風が吹いているだろう、森と風が出合い、交歓しているだろうと、どこか遠い場所から空想しているような印象があります。森の植物と「青」の字の響き合いなどもあり、詩心が刺激される句です。(編集部)