本の森

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2021年以後の刊行書から順不同でご紹介します

『俳句日記2012 瓦礫抄』小澤實


  令和4年12月
  ふらんす堂
  定価:2420円(税込)


 

 2012年にふらんす堂ホームページで毎日連載された「俳句日記」の単行本化。


 実際の日記というだけあって、本書にはおびただしい人名が登場します。俳壇の俳人、友人、弟子、編集者、飲み屋の主人、そして古人まで。興味深いことに本書巻末にはこれらの人名、そして訪れた店名を拾った索引が掲載されています。五十音順という機械的な配列によっておもわぬ人名が隣り合っており、不思議なおかしみがあります。

 

 たとえば「は」の項目を見てみると、2月に千住大橋の取材の帰りに寄って赤ワインを飲んだ「バードコート」にはじまり、9月に観た舞台「すうねるところ」に出演していた萩原聖人、1月に訪ねた展覧会に出展していた映像作家・朴ヒョンジョン、7月に早稲田大学の授業で学生に話した白楽天、エッセイ「芭蕉の風景」の連載等に関係して31回も出てくる芭蕉、8月の角川俳句賞選考会で同席した長谷川櫂、8月まで主宰誌「澤」のバックナンバーを保管してもらっていた長谷川照子――。生きるということは無数の固有名詞に囲まれることなのだと思い知らされます。漢詩人・白楽天と俳人・芭蕉というビッグネームが並んでいるのは偶然の産物ですが、つねに胸の中で古人と対話する著者の態度が現われているようにもみえてきます。

 

 日記部分は100字強の短文ですが、出来事の報告やちょっとした思索を綴るなかに緩急が感じられ、さながら小品を味わうような読後感です。

 

 山形大会で「こんにやくをちぎる役目や芋煮会 清野佐知子」を特選句に選ぶ。「蒟蒻をちぎる係は芋を切る係に次ぐもので、いずれ芋を切る係になってやろうという思いも感じられる」と想像しつつ講評。すると、懇親会で「当地では里芋は切らない、芋水車で洗うだけ」と指摘を受けてしまった。現地に身を置く楽しさを味わう。(十月三日)

 

 このように、俳人として各地を訪れ、人と交わる日々を生きる著者ならではの経験と感性に触れることができる文章がたっぷり収められています。

 

 俳人としての真剣さが覗く場面もしばしば。

 

 今週も讀賣俳壇の選が、遅れている。選者指定制だが、表に小澤實選希望、裏に矢島渚男選希望という葉書を発見した。何という移り気。こういうはがきは読む必要もないが、読んでみるとやはりひどい。渚男さん宅に行かなかっただけよかったとするか。(六月六日)

 

 投句者と選者との間に結ばれる関係についての厳しい考えがこの一文に凝縮しています。

 

 ところで小澤氏といえば、第3句集『瞬間』(2005年)以降長らく句集を刊行しておらず、読者を待たせている俳人です。その意味で本書は、句日記というイレギュラーな形式ではありますが、待望の新句集にあたります。

 

  そらまめにたけのこ炒めくれたるよ

 

 美味しそうな一句。「~してくれる」という授受表現は「~したまふ」といった中古文法の敬語表現が衰退したあとに生じた語法で、古典文法の句に用いるとちぐはぐな感じがすることもあるかもしれませんが、掲出句の場合、「そらまめ」「たけのこ」という平仮名表記や「よ」という軽やかな助詞と響き合い、好ましい軽やかさが感じられます。

 

  煮し蕗の透きとほりたり茎の虚

 

 散文であれば「茎の虚」が「煮し蕗の」の直後に挿入されるのではないでしょうか。逆に俳句の常套であれば「茎の虚」は省略しても伝わる範疇かもしれず、あえて下五に置くことで、蕗の様子がいっそうくっきりと提示されています。どちらの方向から考えるにせよ、最終的には、中七の後ろの切れの効果が浮かび上がってきそうです。

 

  若楓打ち動かせる降りとなりぬ

 

 強まった雨に楓の若葉が躍動している景ですが、詠みようが巧みです。「打ち動かす」という複合動詞の発見、「雨」ではなく「降り」という言葉の選択……。「降りとなる」ではなく字余りの「降りとなりぬ」なのは、「なる」では一句全体を見たときに散文的だという判断でしょうか。

 

 俳句の骨髄に迫るべく歩んできた著者の練られた言葉遣いに多くを学べる一冊です。(編集部)