本の森

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2021年以後の刊行書から順不同でご紹介します

古田嘉彦句集『移動式の平野』


  令和4年9月
  邑書林
  定価:2000円(税込)


 

  「LOTUS」同人の第4句集。巻末の「工房ノートⅡ」に「俳句(発句)はわずかな語数で広大な世界を呼び寄せる入口になることができることに人々が夢中になって連歌から独立したというのがその成立において起きたことだと私は理解している。それを引き継ぐのが俳句というジャンルであり、それに対しその他の要素(定型等)は従属的なことである」と述べる通り、定型の韻律からは外れる句が収録されています。

 

 飛翔拒めば金魚 希釈できない王朝

 

 「飛翔」と「金魚」、「希釈」と「王朝」という異質な言葉同士が、「拒めば」「できない」という否定を媒介として結びつけられ、かつ、一文字分の空隙を挟んで隣り合います。前半をまず読むと、金魚は羽を持たず、そして鑑賞目的の生物であるゆえに水槽を出ることがない存在ですから、世界へ能動的に参入することを拒んで内向する精神の隠喩と理解すればよいでしょうか。

 

 「金魚」と「希釈」という言葉は、ここには詠まれていない「水」のイメージを導入することで接点を持ちます。「希釈できない」も、先に「飛翔拒めば」から感じ取った閉鎖と内向のイメージと重なり合います。とすればこの「金魚」は「王朝」の喩としても働くかもしれません。自浄作用を持たず、腐敗してゆくのは「王朝」の常です。

 

 つまりこの句は、言葉が多重にイメージを喚起しあう末に、同じベクトルを持ちはじめるという仕組みの句ではないでしょうか。ただし、これはあくまで試読であって、鑑賞の際に持ち出した読み手側のイメージが陳腐であることは否めません。隠喩とは一つのイメージに収束するものではありませんし、読み手によって喚起されるイメージの深度も異なってくるでしょう。

 

 あまりに泉だが届いただろうか

 

 先の句とは逆に、言葉の連想関係が希薄で、一語ごとの余白が広い句です。誰に、何が、という散文には必須の枠組みが欠けており、読者はそれらを、「泉」「届く」という言葉の印象からたぐり寄せていかなければなりません。「あまりに泉だ」という表現自体、常識的な言語の運用から外れています。その事態が「だが」という逆接で捉えられ、それゆえに「届いただろうか」と視点人物が思うとは、いったいどのような意味を持つのでしょうか。過剰な泉、そして「届く」という言葉が示唆するコミュニケーションの成立を案じる思いに、一抹の切実さが感じられます。

 

 淡水を選んで行く列車<水銀燈

 水栽培の少女≠翡翠、銀貨

 飛行船の隠し場所=水面化した全身

 

 不等号・等号などの記号が用いられた句もあります。これらは記号の意味によって、前後のイメージの関わり方が提示されるという仕組みになっています。「!」や「?」といった記号を用いる俳人は多くいますが、「<」「≠」「=」を駆使し、イメージの関係性を可視化するという目的で記号を使う例は珍しいのではないでしょうか。ただし「<」はクレシェンドの可能性もあります。

 

 言葉の詩的な効果と向きあう読書体験ができる一冊です。(編集部)

 

 ※引用にあたって詞書きは省略しました。ぜひ実際に手にとってご確認ください。