本の森

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2021年以後の刊行書から順不同でご紹介します

『菊は雪』佐藤文香句集


  2021年6月
  左右社
  定価:2500円+税


 

 〈手紙即愛の時代の燕かな〉〈紫陽花は萼でそれらは言葉なり〉などが印象的だった『君に目があり見開かれ』(2014年)に続く第三句集。著者はこの期間、入門書『俳句を遊べ!』(2016年)や俳句アンソロジー『天の川銀河発電所』(2017年)など、俳句界の外の読者を視野に入れた書籍の製作に関わっています。『菊は雪』の巻末に収録されている句集製作の記録「菊雪日記」で〈今「句集を読む」というゲームに必要なのは、攻略本の存在である。(中略)複雑なゲームをクリアできるのが、それと同じくらいのゲームをつくれる人だけ、というのでは惜しい〉という心情が開陳されているのも、こうした仕事で得た実感なのでしょう。

 

 「攻略本」と自ら位置づける「菊雪日記」では、文体や語彙、季語、切れ字、定型、仮名遣い、典拠、自選、配列、書物としてのレイアウトなど、俳句を作り、発表するという一連の行為に関する氏の考えが次々と述べられており、刺激的な俳論として読むことができます。〈1冊に用いる語彙の範囲は、対象読者をどのあたりに想定するかとも関わる〉〈自分が書いた俳句そのものより、その俳句の意味内容が面白くならないように気をつけている。日本語の姿や音に意味内容が勝つのであれば、定型詩を書く必要はない〉といった思索は、現在の俳句界の中では先鋭的です。

 

 『菊は雪』は、こうした高い作家意識に裏付けられた精緻な技巧に彩られています。

 

  雨は葉に落ちて繫がる夏はすぐに

  滑走路海に途切れて海の肌理

  葉脈のわかれつくして氷雨かな

  あさがほのたゝみ皺はも潦(にわたずみ)

  香水瓶の菊は雪岱菊の頃

 

 雨滴の動的なイメージと夏の季感を重ねつつ、言い止しの形にすることで読者ごとに異なる時期を想像させる一句目。海面の質感が不意にくっきりと見えてくる一瞬に注目することで飛行機に乗る人物の意識を取り出した二句目。葉脈の先端の細さと氷雨の冷たさが繊細に調和する三句目。「たゝみ皺」という俗な言い方と、「はも」「潦」という典麗な言い方とが同居して、雨後に開く朝顔の美に奉仕する四句目。夏、秋、冬を思わせる言葉が矢継ぎ早に一瞬匂っては消えてゆく、幻のような読後感の四句目。

 

 また、俳句の常識を挑発する実験作も散見されます。

 

  四十分くらゐの昼寝モロヘイヤ

 

 季語は「昼寝」ですが、十二音のフレーズに五音の季語を取り合わせるという俳句のパターンに慣れた俳句読者は、一瞬、「モロヘイヤ」を季語と誤読します。あっ「昼寝」が季語か! と気づいた次には、何の説明もなく唐突に下五に置かれた「モロヘイヤ」をどう解釈したらよいのか困惑するでしょう。しかし考えてみれば私たちは普段〈降る雪や明治は遠くなりにけり〉(中村草田男『長子』)のような、フレーズの脇に季語だけがぽんと置かれた句を造作もなく鑑賞しているわけです。〈四十分くらゐの昼寝モロヘイヤ〉という句は、一見ヘンテコですが、取り合せという「お作法」をパロディ化したものだといえます。

 

  君がゐてスキーができてゐたるかな

 

 こちらは古典文法を揶揄した句です。句意は明瞭。スキーの下手な主人公が、恋人らしき人に手を借りたり教わったりしてどうにか滑れるようになったという情景でしょう。ポイントは「ゐたるかな」という大仰な言葉遣い。微笑ましい恋愛の一場面も、古典文法に絡め取られることで、突如として過剰に ―笑ってしまうほどに!― 古雅な雰囲気となります。詩や短歌のメインストリームが口語文体へと移り変わってもなお古典文法で書かれることが多い俳句という形式への批評性が見いだせます。

 

 実験作の白眉は連作「諒子」です。この連作には次のような句が並んでいます。

 

  雪の今日諒子は私みたく可愛い

  可愛い諒子雪に裕哉を呼び出しぬ

  枯野みち諒子は靴紐が結べない

  月の冬 諒子がくれて吸ふ煙草

 

 友人関係らしい「私」「諒子」「裕哉」の三人が雪の一日に遊ぶ様子が詠まれています。元ネタとなる小説や映画、テレビ番組などがあるわけではなさそうなので実在の知人かと思いきや、「菊雪日記」によるとどうやら架空の人物のようです。もっとも、唐突に突き出される未知の人名であることに違いはありませんから、諒子や裕哉が実在するかどうかは読者には関係がありません。

 

 驚かされるのは、全く知らない人名であるにも関わらず、この三人の関係性をおぼろげに理解できる点です。諒子は女友達らしい、裕哉と諒子は(恋愛かは分らないけれど)気の置けない仲らしい、この親しい二人の間に「私」が交じっても問題ないらしい―。 俳句は座の文芸であり、言葉のイメージを作者と読者が共有できるからこそ短くても成り立つのだ、としばしば言われます。しかし、詠まれているのが「諒子」「裕哉」という未知の存在だとしても、関係性や「可愛い」「靴紐が結べない」「煙草」といった設定が書き込まれてさえいれば、読者は句の世界を深く想像できるのではないか ― 作者の狙いはこのあたりにあるようです。〈ここで大事なのはごんべんに京という字を含む見た目や、この字をリョーコと読むことで、あろうことかこの字の諒子が、靴紐が結べないことの切なさである〉(「菊雪日記」)

 

 この連作は、三人の関係性が、その中の一人である「私」の視点で詠まれるという構造です。それゆえ「私」が出てこない句であっても、その情景に注目する「私」の存在が意識されます。例えば〈枯野みち諒子は靴紐が結べない〉という句は、単に諒子は靴紐を結ぶのが苦手だということを表わしているのではなく、そんな諒子に「私」の意識が向けられていること、つまり、彼女の不器用さに「私」の心が動いていることも示しているのです。俳句は一人称の文芸だと言われることがありますが、実際には、読者が人称を意識して俳句を読むことは、小説と比べれば稀です。関係性や背景を深読みしたくなる小品風の連作だからこそといえるでしょう。

 

 総句数550句の大ボリューム。刺激を受ける句が見つかるはずです。(編集部)