本の森

編集部へのご恵贈ありがとうございます
2021年以後の刊行書から順不同でご紹介します

安藤喜久女句集『薔薇は薔薇』


  令和4年9月
  文學の森
  定価:2700円+税


 

 著者は昭和7年に「寒雷」同人の一志庵田人の長女として滋賀県大津市に生まれ、10歳の頃から父に俳句の手ほどきを受けたといいます。以後、今枝蝶人、加藤楸邨、和知喜八、澤野弘、伊丹三樹彦、赤尾恵以、川端柳太郎ら多くの師と巡り合い、現在は澤野弘より引き継いで「俳星会」主宰。本句集は「青春譜」と題する昭和26~30年までの、文字通り青春期の作と、平成11年以後の作を収めます。

 

 「青春譜」の章の句は、戦後期の「楸邨山脈」の磁場の中で若い叙情を俳句という形式にぶつけた力作が並んでいます。現代になってこうした句に対して新たに光が当てられる機会は少なく、その意味でも興味深い章です。

 

 牡丹赤い人を信じ得ぬ夕べ

 聖歌もる秋雨の扉ためらはず

 薊好む母と夕歩の婚近く

 

 生(なま)のままで詠み込まれる「人を信じ得ぬ」「ためらはず」「薊好む」といった心情が、季語や周辺のモチーフとの出合いによって、叙情的に、俳句に定着しています。

 

 夫となる人に逢はむ筑紫の大夕焼

 

 昭和20年代はまだ見合い結婚が恋愛結婚よりも多い時代。結婚のために郷里を離れ、夫となる人はどんな人であろうかと胸をドキドキさせながら夕焼けの中を歩いたのです。先に挙げた〈薊好む母と夕歩の婚近く〉の「婚近く」のニュアンスは、この句と並べてみることでいっそう明瞭になるでしょう。異郷での見合い結婚には不安もあったかもしれませんが、句自体はあくまで叙情的に、ロマンチックに詠まれています。ロマンシティズムの態度で自身の周辺の世界を愛するのはこの若い俳人の得意とするところでした。

 

 著者のロマンティシズムは薔薇に仮託されます。

 

 幸あるを信じ青天のばらを切る

 この思慕(ゆめ)をだれも知らざりばらを切る

 姿見のばら散り私の瞳が動き

 

 単に薔薇を眺め、愛でるのではなく、「切る」「散る」といったさまに注目する句が多くあります。思い切ったり、思いを飲み込んだり、思い迷ったりする内面が、これらの「薔薇」のさまと連動しているかのようです。

 

 畳踏むその感触と紫陽花と

 握手五秒秋風階を吹きぬける

 編機とめ今は枯野を意識する

 

 「その感触」「握手五秒」「意識する」といったメカニカルな言葉が散りばめられているのも「青春譜」の句の特徴です。こうした表現のトーンは楸邨の周辺の俳人たちが戦後期に取り入れていったものとよく似ています。若き著者が戦後俳句の空気をぞんぶんに吸っていたことが窺えます。

 

 「青春譜」の次の「京夢幻」は平成11年から22年の句を収める章です。前章で初々しく詠まれた〈夫となる人に逢はむ筑紫の大夕焼〉の「夫」は人生を全うし、〈夫の手の冷たさ握る春の宵〉と詠まれています。この空白の期間の句を収める句集が別にあるのか、今回の句集制作にあたって省いたのか、さだかではありません。少なくとも『薔薇は薔薇』の読者にとっては戦後から平成へといきなりタイムスリップしてしまうわけで、いきおい、異なる時代の句を比較してみたくもなります。

 

 そのような意識で近作「水団扇」(平成31年~令和4年)の章に目を通すと、「青春譜」でも詠まれていた恋のモチーフが散見されることに気づき、思わず笑顔になります。

 

 ねぢばなやただひとすぢのこひをはる

 定命や娑婆は娑婆つ気薔薇は薔薇

 君知るや老が領巾(ひれ)振る東風の朝

 

 生硬だった「青春譜」の句と比べると、熟練の技量が加わり、滋味が増しています。1句目は平仮名に開いた表記に妙があり、「ただ」「ひとすぢ」「こひ」「をはる」という一語一語を確かめ、愛おしむような気配があります。2句目は表題句で、人生の夕暮れにあたって生き方を開き直るような趣きです。若き日に愛好した「薔薇」というモチーフがここでも繰り返されています。

 

 3句目の「領巾振る」とは『万葉集』に出てくる表現で、女性が別れを惜しんで、肩がけの布を振ることを指します。天上の夫は気づいているだろうか、年老いた私が、東風の吹く朝、あなたを思って領巾を振っていることに、という句意です。格調が高く、そして激烈な思いが感じ取れる秀句です。(編集部)