本の森

編集部へのご恵贈ありがとうございます
2021年以後の刊行書から順不同でご紹介します

小川楓子句集『ことり』


  2022年5月
  港の人
  定価:2000円+税


 

 

 アンソロジー『超新撰21』(2010年)への入集などですでに知られている著者の待望の第一句集。新しい感覚の表現に驚かされる一冊です。著者は2008年に「海程」入会、金子兜太に師事して作句を開始(「海程」終刊まで所属)。また2010年からは山西雅子氏の「舞」にも所属しています。

 

 著者は名句の表現をよく吸収していると感じます。例えば句集中の〈胸のなかより雉を灯して来りけり〉という句は、単に雉を抱いているだけでなく、あたかも体の中、心の中に雉を飼っているかのようなイメージも喚起されるところに妙のある句ですが、〈身の中のまつ暗がりの蛍狩り〉(『鳥宙論』1968年)〈身のなかを身の丈に草茂るかな〉(同前)〈抱けば君のなかに菜の花灯りけり〉(『密』1970年)といった句で新しい身体のイメージを提示した河原枇杷男という先行者を思い起こします。

 

 また同じく『ことり』には〈たふれたる樹は水のなか夏至近し〉という句がありますが、夏の光にかがやく水中に沈む物体の美しさといえば、この美を先駆的に発見した飯島晴子の〈泉の底に一本の匙夏了る〉(『蕨手』1972年)が即座に想起されます。句集の終わりに出てくる〈鯛焼や雨の端から晴れてゆく〉という句の「鯛焼」という季語の意外性も、季語の取り合わせの距離をさまざまに試みてきた先達がいればこそでしょう。

 

 〈わが産みし鯨と思ふまで青む〉の「~と思ふまで」は、鍵和田秞子の〈鶴啼くやわが身のこゑと思ふまで〉(『武蔵野』1990年)以後、俳人が愛用するようになりました。外界、それも鯨のようなスケールの大きな存在を自己の身体において捉えるという感覚もまた、戦後~平成期の俳句の遺産です。たとえば〈オートバイ内股で締め春満月〉(正木ゆう子『静かな水』2002年)や〈抱き締めて凍滝溶かす身丈欲し〉(神野紗希『すみれそよぐ』2020年)のような句とも一脈通うところがあるように思われます。あるいはこの「鯨」のイメージは、2000年代の代表句の一つである冨田拓也の〈気絶して千年氷る鯨かな〉(『青空を欺くために雨は降る』2004年)とも共振するでしょう。

 

 その意味で、この『ことり』という句集は、広い意味での現代俳句の豊穣を祝うような趣をもちつつ、と同時に、著者の独自性を示す句も多く、とりわけ口語を用いた句には格別の特徴がありそうです。

 

  にんじんサラダわたし奥様ぢやないぞ

  春は名のみの吹奏楽がきこえるね

  猫柳とかおそろひのスタッフTシャツとか

  色鳥来さてもみじかいスカートだな

  換気扇まはす麦踏したかなあ

 

 「ぢやないぞ」「きこえるね」「…とか…とか」「だな」「したかなあ」といった文末表現は、日常の話し言葉をナチュラルに取り入れたものです。口語俳句というとき、古典文法に対する現代語の文法の意味での「口語」である〈銃後といふ不思議な町を丘で見た〉(渡邊白泉『渡邊白泉句集』1975年)のような句だけでなく、〈がんばるわなんて言うなよ草の花〉(坪内稔典『猫の木』1987年)、〈なぜか柚子九個机上に勝てないよ〉(飯島晴子『儚々』1996年)のように、会話で用いる表現を取り入れた句もすでに蓄積があります。

 

 著者は後者の口語表現のバリエーションをふんだんに用い、その言葉を発する主体の存在感を句集全体に髣髴とさせています。「わたし奥様ぢやないぞ」とおどけてみせ、どこからか聞こえてくる「吹奏楽」に心を寄せ、「おそろひのスタッフTシャツ」に「あるある」を感じている主体は、若い青春期を少しすぎたくらいだろうか、と思わせます。

 

  永日のきみが電車で泣くからきみが

 

 「きみが」を繰り返して中途半端なところで途切れるこの句には、電車の中で泣き出してしまった「きみ」に対してどうふるまえばよいかわからなくなり、自分も混乱し、あたふたしている主体の様子が描かれています。「きみが電車で泣くからきみが」は、混乱する感情のままに心の中に溢れ出る言葉をそのまま切り取ったかのようです。

 

 もっとも口語表現は、単に作者の分身である主体をリアルに描き出すために使われているのではなく、「さても」という狂言風の言い回しや「麦踏したかなあ」という実際の日常ではとても出てきそうにない独白など、言葉の違和感を醸し出す工夫にもなっています。先の〈永日の…〉の句も、「永日の」まではオーソドックスな俳句の筆法ながら、そのまま「きみが電車で泣くからきみが」という放埒な口語表現につながっていく違和感が一つの眼目です。一般に「永き日」という形で使われることの多いこの季語を、珍しい「永日」という漢語にして用いていることに、独自性を感じます。

 

 歴史的にいえば、口語俳句は、古典文法では生活感情を直裁に表現できないというもどかしさから発生しているのですが、『ことり』の口語俳句の場合、なまじ口語であるために、微妙なニュアンスを嗅ぎ分けるのが難しく、例えば〈鮭のシーズンにこにこも伝はります〉の「にこにこも伝はります」、〈つぐみ来るから燃えるつてしぐさして〉の「燃えるつて仕草して」は、どんな人がどんな表情、どんな息遣いで発した言葉なのか、著者と阿吽の呼吸で理解するというわけにはいかないでしょう。日常の体温のないこれらの言葉には、不穏さ、奇妙さの気配さえあります。

 

 現代短歌ではこうした口語表現と主体をめぐる解釈上の問題が評論の俎上に上がる機会も多いのですが、俳句界もまた、議論が活発化する時期になりそうです。(編集部)