本の森

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2021年以後の刊行書から順不同でご紹介します

『旅懐』森田純一郎句集


  2021年10月
  角川文化振興財団
  定価:2700円+税


 

 「伝統俳句」とは有季定型を墨守する俳句のことで、新興俳句など、それまでの俳句の価値観からは逸脱する俳句が出現したことによって、それまで「俳句」と呼ばれていたものがことさらそのように呼ばれるようになったのですが、「有季定型俳句」などと呼ばないのは、単なる語呂の問題だけではなく、よき先達の遺産を継承し、守るという意識が濃厚にあるからでしょう。伝統俳句の牙城である「ホトトギス」の源流の一人である高浜虚子が、河東碧梧桐らの新傾向俳句が隆盛した際、自身を「守旧派」と称したことも想起されます。

 

 俳句が「継承」しうるものだという感覚があるのは、有季定型、加えて文語、花鳥諷詠、写生といったルールや目標が明確に存在するからですが、これらを達成するために、先達の秀抜な表現を共有の財産とし、自作に取り入れることがしばしば行われます。秀句の蓄積によって次の世代の秀句が生まれてゆくのが伝統俳句なのです。

 

 このことを改めて思わされたのが、平成25年に父・森田峠から「かつらぎ」主宰を継承した森田純一郎氏の最新句集『旅懐』でした。父・森田峠自身、師である阿波野青畝が創刊した「かつらぎ」を青畝の生前に譲られています。「かつらぎ」は戦時中の雑誌統合令で一時名前を消していたとはいえ戦前から存在する古い結社。まさに伝統の継承です。

 

  さなくとも寒き市場に水撒かる

  陋巷の真中に涅槃したまへる

 

 一句目、「さなくとも」(=そうでなくても)ただでさえ寒い市場なのに、さらに水が撒かれてさらに寒々としてくるという句。俗情に流れてしまいそうな発想を「さなくとも」という古語が引き締めています。この「さなくとも」はなかなか俳句では見かけない表現なのですが、下村梅子に〈さなくとも彼は嘘つき四月馬鹿〉(『砂漠』1982年)があります。さまざまな時代の古典に詳しかった下村梅子は青畝に師事した「かつらぎ」のかつての重鎮。森田氏もこの句に学んだのではないでしょうか。

 

 二句目、「陋巷」(ろうこう)は狭くて汚い町。釈迦の入滅を空想した句か、あるいは、こんな町でも涅槃会をやっているのか、といったところでしょうか。青畝に〈一の字に遠目に涅槃したまへる〉(『國原』1942年)という句がありますから、青畝句を念頭に置いているのでしょう。青畝句自体が、同時代にともに「ホトトギス」で活躍した川端茅舎の〈土不踏ゆたかに涅槃し給へり〉(『華厳』1939年)と共振する句です。

 

  背伸びしてなほも届かぬ墓洗ふ

 

 こちらは父・峠の代表句〈森田家の背高の墓を洗ひけり〉(『避暑散歩』1973年)を踏まえた句。父子唱和の趣です。峠の句があるからこそこの墓が「背高」であることがわかり、ゆえに「背伸びしてなほも届かぬ」の意味がいっそう明瞭になるのですが、すでに峠が物故してこの墓に入った今、あたかも、まだ俳句の技は父には及ばないのだという寓意も潜んでいるでしょう。

 

  案外に杵の重しや餅を搗く

  種物屋四天王寺の客に混む

  墨まみれなる手にて選る糶の蛸

 

 これら写生の眼の利いた句も父譲り。特に〈種物屋四天王寺の客に混む〉は逸品ではないでしょうか。

 

 海外詠が多いのもこの句集の特徴です。

 

  すれ違ふ香水強しニューヨーク

  これしきの暑さ嘆くやロンドン子

  ティファニーの正面社会鍋を吊る

 

 俳諧味を意識して海外の風景に切り込んでいくなかにその街らしさが強調されるような人事句が多くあります。なお句集表題の「旅懐」は晩唐の詩人・杜苟鶴(と・じゅんかく)の詩題で、旅中の思いの意。峠から主宰を継いだ数年間はニューヨークやロンドンなど海外出張に忙殺されながら「かつらぎ」や総合誌での俳人の仕事もこなさなければならず大変だったといいます。この期間の自身の軌跡を残したいという思いが込められた表題だそうです。(編集部)