本の森

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2021年以後の刊行書から順不同でご紹介します

小川軽舟句集『無辺』


  令和4年10月
  ふらんす堂
  定価:3080円(税込)


 

 「鷹」主宰の第6句集。2015年から2022年までの句を収めますが、前句集『朝晩』(2019年)との関係について、説明が必要な部分があります。『朝晩』は2012年から2014年を中心に、2018年までの作品を適宜加えた句集でした。2014年までの句以外に加えられたのは、〈妻来たる一泊二日石蕗の花〉〈爽やかに仕事ができる体かななど、単身赴任生活を送る「私自身の境遇と生活の色濃く出た作品」(『朝晩』あとがき)です。
 
 『朝晩』の時代、氏は、自身のサラリーマン生活を意識的に俳句に詠みこもうとしていました。大きな理由の一つとしては、「私の人生は私の世代の標準的なものである。あえて境涯俳句と呼べるような特色はない。しかし、平成も終ろうとする今、かつての標準がもはや標準でなくなっていることに気づいた。私の平凡な人生は、過ぎ去ろうとする時代の平凡だった」
(『朝晩』あとがき)という気づきがあったからでした。氏の家庭はいわゆる標準世帯、つまり、夫が働いて家計を支え、妻は専業主婦、そして子どもが二人いる四人家族です。夫婦共稼ぎ世帯や一人っ子世帯、一人暮らし世帯の増加した現在、自身の暮らしが決して「平凡」なものではなくなっていたということに氏は驚き、自己の労働が家族を支えるという人生のあり方を意識するようになったのです。
 
 『朝晩』時代に刊行されたエッセイ集『俳句と暮らす』(2016年)にもその意識が反映されています。このエッセイ集は「飯を作る」「会社で働く」「妻に会う」「散歩をする」「酒を飲む」「病気で死ぬ」という章立てになっており、「暮らす」ということと「会社で働く」ということが結びつけられています。氏は次のように書きます。
 
 男性俳人はその大半がサラリーマンである。それなのに、サラリーマンの生活を詠んだ俳句は少ない。私が俳句をやっていると知ると、俳句のことはよく知らないが、サラリーマン川柳はおもしろい、と言うサラリーマンはとても多い。社会性俳句の潮が引いたあと、俳人たちの視線は同時代の社会に向かわなくなった。
 
 そして、数少ないサラリーマン俳句の作者として、〈秋鯖や上司罵るために酔ふ〉〈うそ寒くゴルフ談義の辺に侍すもなどの句がある草間時彦を取り上げ、「私はどうも感心できない。それぞれ季語が効果的で俳句らしい俳句ではあるのだが、発想がサラリーマンの固定観念に終始していて、サラリーマン川柳とベクトルが一緒のように思われるのだ」と評します。だからこそ自分が、という思いがあったのでしょう。
 
 「社会性俳句の潮が引いたあと、俳人たちの視線は同時代の社会に向かわなくなった」という主旨の指摘は、軽舟氏が40代で執筆した評論集『現代俳句の海図』(2008年)にも見られます。昭和30年代前後に出生した自身と同世代の俳人たちは、その上の世代と比べたとき、社会などの主題を俳句で表現するという意識が希薄であった、という論旨です。この評論を経て50代になった氏は、サラリーマンという自己を、社会を意識しながら詠むというテーマを得たのでした。
 
 『現代俳句の海図』で指摘された状況は、2011年の東日本大震災によって否応なく変容しました。直接の被災者ではない正木ゆう子氏が、「被災した子供たち」という前書きを持つ〈人類の先頭に立つ眸なりなど、巨視的な句を多く収録した『羽羽』(2016年)を刊行したのも、その現れです。同時に、中原道夫氏が、パリ同時多発テロの直後にパリを訪問することになって以来(〈血を血で洗ふ絨毯の吸へる血は〉『一夜劇』2016年)、国際社会を意識した作句をするようになったのも、『現代俳句の海図』への一つの答えだったのではないでしょうか。石田郷子氏が2015年に刊行した句集『草の王』が、〈夕河鹿セブンイレブンまで三里〉等、里山生活を全面に押し出すものであったことも連想されます。2010年代は、俳人が主題を回復した時代だったのです。
 
 今回の『無辺』は、その意味で、何もない日常への回帰(〈腹持ちのはかなき粥や春の暮〉〈朝飯に宿の値打ちや沈丁花〉)、それゆえに生じる古典趣味への傾倒(〈草合せ掃溜菊に悪茄子〉〈神饌の案(つくえ)簡素に禊かな〉)という趣きがあります。
 
 一方で氏は、自身にとっては平凡な、しかし着実に失われつつある風景というもう一つのテーマに取り組んでいます。氏にはもともと、昭和への郷愁を詠んだ優れた句がありました。『呼鈴』(2012年)時代の代表句〈かつてラララ科学の子たり青写真〉〈日記果つ父老い長嶋茂雄老い〉などがそうです。上に引用した『朝晩』のあとがきで、「過ぎ去ろうとする時代」という点が強調されていたこととも関係していそうです。
 
 『無辺』では、『呼鈴』時代の「かつて」や「老い」のような、時間の経過を表す言葉を用いた〈新緑やこどもの頃のひかり号〉〈春泥もアドバルーンも昔かななどの句がある一方で、現代にぎりぎりのところで残っている昭和をあくまでそのまま描いている点に特色があります。
 
 囀や客が世間の散髪屋
 葉桜や転校生に渾名つく
 平積の婦人雑誌や松の内
 
 地域に根ざした散髪屋、あだ名によって深まる子どものコミュニケーション、華やかな表紙の婦人雑誌が並ぶ書店の店頭……これらはだんだんと過去のものになります。美容意識の高まりから男性も三分の一以上が美容室に通うようになった一方で、経済状況からいわゆる千円カットを選択する人も増加したいま、ご近所さんばかりを客とする理容店は減少傾向にあります。子どものあだ名は、不平等やいじめにつながるという観点から、禁止している小学校があることが知られています。出版不況の現代、紙の雑誌の発行部数は減りつづけ、一方では電子雑誌のサブスクリプションやウェブメディアの市場が拡大しています。
 
 窓の外の鳥のさえずりののどかさ、葉桜のすがすがしさ、松の内の晴れやかな気分、それぞれの句の季語は、場面を説明するだけでなく、取り合わされる風景とひびきあい、円満な空気を伝えます。それゆえにどの句の景も、近い将来に消滅するという気配は全くありません。しかし一方で読者はこれらの風景の行く末を予想できてしまうために、これらの句はすでにして懐かしさを湛えています。
 
 氏の句はこのように、巧みな場面設定と季語の斡旋によって、過去と現在という二つの時間を二重写しにして示します。
 
 春泥に朽ちつつ立てり完成図
 
 かつてここに建物が建つ予定だったのに、計画は放棄され、いまは春泥の空地に完成図が放置されているだけ、という句です。わざわざ完成図が設置されていたということは、大規模な建造物だったのでしょう。作者の念頭には、鍵和田秞子氏の代表句〈未来図は直線多し早稲の花〉(『未来図』1976年)があったかと思われます。花をつけた早稲が広がる一面の田園が開発されて人々に富と生活の向上をもたらすという希望が当たり前のようにあった時代の句です。
 
 その後、経済や社会の状況は変化し、掲出句のような情景が日本のあちこちに見られるようになりました。1991年生まれの越智友亮氏が昨年刊行した句集『ふつうの未来』(2022年)の表題句〈枇杷の花ふつうの未来だといいな〉で詠まれている「未来」と、鍵和田氏の「未来」とを比べれば、人々が求める「未来」の質が変わったことが感じられます。越智氏の句には、発展や幸福などは望まない、「ふつう」であれば充分だという「未来」の感じ方が見られるのではないでしょうか。
 
 なお、榮猿丸氏にも〈看板の未来図褪せぬ草いきれ〉(『点滅』2013年)という句があります。これも鍵和田氏の句を踏まえたものだと思われます。

 軽舟氏の鋭敏な時代感覚は、すぐに古びてしまうであろう現代のモノ・コトにも向けられます。〈亀鳴くや伏線多きミステリー〉は、物語の起伏よりも、いかに読者を驚かせるかに重きが置かれた昨今のミステリ作品を思わせますし、〈風花や近所のパン屋神戸一〉は、「神戸」がおしゃれなグルメの街として毎日のようにテレビや雑誌で取り上げられる現代だからこその句です。
 
 取り合わせを基調とするオーソドックスな俳句の文体で時代の空気を活写した句集です。(編集部)